アダム・ジシュカの霞の本

 これは、現在のチェコ共和国の首都プラハにて、14世紀に書かれた2人の男の手記と、またそれに関連した2つの奇妙な新聞記事を現代語などに翻訳し、まとめたものである。
 しかし、この手記に記載のある人物や事象などは、現在残っている他の歴史的資料には残されていないことが多く、この時代における創作なのか、あるいは事実なのかは現在でも分かっていない。
 手記はおそらく続きで書かれているものと思われるが、現時点では1冊ずつしか発見されておらず、その前後のものは未だに見つかっていない。
また、手記の一部には発見された時点で、ひどい損傷や劣化、落丁などが見られており、解読不能な箇所も多く存在していたため、読み取り可能な場所だけを書き起こしていることを、予め了承していただきたい。

アダム・ジシュカ 


「錬金術師ヨハン・フラメールの手記」

 1418年5月15日 天気・晴れのち曇り
 今日の成果
 昨日までの材料に、今回はリンを0.5g、亜鉛は0.1g増量。
 胎生状態までの形成・不。発火し、消滅。
 酸に特定の金属を入れたときのような現象を、期待してはならないのかもしれない。やはり、時間はかかっても温度を胎内と同じくらいに調節したほうが良さそうだ。

 出来事
 驚いた。同郷のヤンもここに来ていたらしい。なんで気づかなかったのだろうか。もっと早くに気づいていればよかった……
 彼がここに来たのは2週間ほど前だという。王立教会の助祭 として、俺と同じ城にいるのだ。同郷の友人として、彼の出世を心から嬉しく思う。久しぶりに会ったのだから、積もる話でも語り合いたいと誘ったのだが、彼は断った。仕方がない、彼も忙しいのだろう。
 ヤンのことで思い出すのは、故郷のブリュンでの復活祭だ。侍者として、司祭の横に立った彼の姿を今でも覚えている。教会の窓から入る眩しい朝日に目を細めながら、刺繍糸のような金色の髪を光らせていた姿。ちょうど、祭壇の後ろに描かれた天使像と瓜二つなので、おかしいやら何やら、ニヤニヤ笑って見ていると、彼がこちらに向かって一瞬眉をひそめたあと、何かに気がついたようにニコリと笑った。
 ミサが終わったあと、ポムラツカー を持って遊び仲間の女の子を追いかけ回していると、突然ヤンが現れた。あの神聖さと、悪魔的雰囲気の合わさった笑みを浮かべたまま、彼は柳の枝を持って、俺に向かってきた。彼の企みがわかって、慌てて逃げ回ったが、周りの女の子たちはヤンに歓声を浴びせていた。最終的に、彼が俺に飛びついたせいで坂道を転がり落ち、あえなく俺は彼のムチの餌食になった。彼の笑いはそういう意味だったのだ。結局、自分があちこちの女の子たちから巻き上げたお菓子を根こそぎ奪われたが、
「大事なのは施しの気持ちだよ」
 と言って、女の子たちと分け合い、一緒にお菓子を食べたのだった。
「今日のことを神父様に言いつけたら、君はどうするんだ」
 と俺が聞くと
「神父様なら、僕のしたことを理解してくれるはずさ。だって神の使いだもの」
 と彼は笑った。
「僕は悪巧みに気づいたら止めずにはいられないからね」
 俺が考えていたこと以上に、彼の止め方はなかなか厳しいものがあったが、それでも何故か、そこからの俺達は本当によく遊んで、よく笑っていた。
 俺が唯一心配だったのは、その頃よりも彼の顔が少し険しくなったことだ。聖職者の道が厳しいのは、何となくは理解できるが、でも、それ以上に……彼の表情が朝日を受けても輝いて見えなかったのが心配だ。明日にでも、また見かけたら声をかけてみよう。

「助祭ヤン・ストシーブラの手記」

 1418年5月15日
主よ、私の告解をお聞きください。今日、古き友に再会しました。しかし、私は彼に会わせる顔がございません。何故なら、私は神の道に疑いを持ち始めてしまったからです。王立教会は、人々に対して神への道を説くのではなく、他国との戦の口実とし、民衆に不自由を強いていることを正当化している気がするのです。神の教えを人々に広めることが大きな意義を持っていることは理解していますが、そのために異国の人々を殺めるのは正しい行いなのでしょうか。民に不自由を強いることは正しいことでしょうか。私は世の平安を待ち望んでいるのに、なぜその助力に尽くさねばならないのでしょうか。私はそれが疑問でならないのです。日々、このようなことに悩んでしまうせいで、友との再会も心から喜ぶことができませんでした。
友は……ヨハンは、立派になっておりました。私よりもずっと。子供の頃の、あの純真な眼差しはそのままに、実に精悍でたくましい男になっておりました。秋頃の色づいた落ち葉のように、艷めく栗色の髪も、ヨハンだと分かる面影を残していました。学者らしい黒マントもとても似合っており、子供の頃にベッドのシーツを被って遊んでいた姿とは大違い。なのに、復活祭のポムラツカーで悪巧みをしていたときのような、あの悪戯めいた笑顔は変わっていませんでした。古き友との出会い、そして彼の活躍を知れたことは、私にとって今日一番のお恵みです。主よ、感謝いたします。
ただ、気がかりなのは彼が錬金術師として、王に仕えているということです。人からの噂を信じるのは良くありませんが、一部の錬金術師の間では、人の手で人を作ろうとしている輩がいると聞きました。自然の、神からの恵みとして我らに与えられる命を、人の手で操作するというのは、神への冒涜ではないでしょうか。彼が、斯様な黒魔術に手を染めてしまわないよう、私に導くことができればよいのですが……
彼に会わせる顔がないとはいえ、彼からの誘いを断ったことが後ろめたく、後悔しております。彼も、私と同じく、主と王に仕える身。二人で共に、主と王のお導きを信じることができますように。アーメン。


「錬金術師ヨハン・フラメールの手記」

1418年5月16日 天気・快晴
今日の成果
 組み合わせるものは最初の頃のもので、温度を36度、湿度70%に設定した容器にて培養を開始。今の所動きはないが、しばらくこれで様子を見る。観察期間は5日間を予定。できるだけ、原初の形に近い環境に立ち返り、そこから短縮への道を探る。

出来事
 今日もヤンに会えた。相変わらず、浮かない表情をしている。子供の頃は、彼のほうが私より体格もよく、強かったのに、今やその面影もない。私よりも彼の肩はずっと細くなった。不思議なものだ。
今日は昼食に誘うと、彼は乗ってくれた。宮殿の外、すぐ近くにある食堂でスープやウサギのローストなどを食べた。彼はブリュンの神学校に通った後に、首都へ来たらしい。ブリュンを出た理由については、あまり詳しく話してくれなかった。何かイヤなことでもあったのだろうか?
 懐かしい話をたくさんした。秘密の隠れ家を酒場の裏手に作って、そこで様々な遊びをしていたこと。自分たちのいた修道院の裏庭で野いちごを摘んで食べたこと。そういえば、彼は俺が野いちごとバラの花で作った飲み物を気に入ってくれていたな。
 俺がしている仕事について、彼は興味を持って研究室に行きたいと言ってくれた。だが、工房の方は錬金術師以外は部屋の立ち入りを禁止されているので、代わりに俺の部屋に案内した。宮殿内の裏手にある集合住宅は、彼も行くのが初めてのようだ。彼は子供の頃の秘密の隠れ家にそっくりだと、笑ってくれた。ちょうど、薬づくりに使っていた野いちごとバラの花もあったので、カクテルを作ると彼は喜んでくれた。憑き物が落ちたかのように、馬鹿げた話をして笑ってくれたことが、とにかく嬉しかった。
「いつでも来いよ」
 と、言ったら彼は笑ってうなずいてくれた。
 正直な話、錬金術師の連中のことは嫌いじゃないが、なんだか時々とてつもなく傲慢な時がある。人々の生活が便利になったり、病気をもっと簡単に直せたり、もっと豊かになるための仕事のはずなのに、自分達の技術で世界を支配するだとか、誰かを言いなりにするだとかの話になると辟易する。錬金術はこの世の自然や摂理の中から、新しい物事を探求することだと俺は思うのだが……
だからこそ、俺はヤンに再会できたことが嬉しい。ヤンはいつでも人のことを考えている。根っからの善人なのに、遊びも心得ている。そういうところが変わっていないことを知れて、今はとても安心できる。



「助祭ヤン・ストシーブラの手記」

 1418年5月16日
主よ、我が友ヨハンと再び交流できる機会を与えてくださり、感謝いたします。子供の頃から変わらず、彼は自分自身の好奇心と探究心の赴くままに、世のため人のため、そして我らが王に仕えていることを知れて、私は自分のことのように誇らしく思います。子供の頃の思い出話や、彼の近況を伺う限り、彼はまったく荒んだところがなく、純真なままです。彼の居宅に伺うと、子供の頃の秘密の遊び場そのままで、思わず笑ってしまいました。彼は子供の頃から、何に使うのか分からないものを拾い集めては、そこから面白い遊び道具を作っていました。きっと、今でも変わらず、彼は独自に様々なものを作り出しているのでしょう。
 しかし、気がかりなのは彼の居宅の隅にあった隠し扉です。彼は、私が気づいたことを知らないでしょうが、カーペットで隠すように、地下への扉がありました。荒削りな縁取りから、彼が独自に作ったものではないかと思うのです。食料の貯蔵庫になっているだけなら良いのですが……しかし、人の居宅を無遠慮に探る私も罪深い。主よ、どうかお赦しください。親愛なる友が良からぬ道に行くのが恐ろしいのです。
 
 主よ。今日、私は司祭より、遠く異国の地が王の力により手中に落ちたと聞きました。神の威光が広く世に広まるのならば何よりの希望です。しかし、城下へと帰還した伝令兵の鎧が血にまみれていました。彼もまた、人を殺めたのでしょうか。血を流さねば神の威光が伝えられぬとは、到底思えない私は……教会に仕える身として相応しいでしょうか。
 私は、もう二度と多大なる戦乱や疾病で家族や友人を失いたくはありません。どうかこの世に一刻も早い平安が訪れますように。主よ、どうか無力な私をお導きください。


「錬金術師ヨハン・フラメールの手記」
1418年5月17日 天気・快晴のち曇り
今日の成果
 温度の調整をしてから1日目。容器の中に入れたものが、少しずつ小さな渦を巻いて大きくなってきた。小さな丸のような塊が真ん中に見えるようにも思える。順調かも知れない。もう少し経過を観察する。
出来事
 週末に、ヤンとストラホフの図書館へ行く約束ができた。ここに来てから友人らしい友人もいなかったので、久しぶりに羽を伸ばせそうだ。最近、美味しいホスポダ がペトシーンの丘にできたらしい。そこも楽しみにしている。今日は、教会でのミサに参列した。錬金術師のヤツらは、最近めったにミサに行きたがらない。俺もずっと行っていなかったが、今日はヤンの当番だと聞いて、思わず覗きに行ってしまった。荘厳な教会の祭壇で、司祭の横で儀式を手伝う彼の神聖さは、子供の頃から変わらない。神に愛された人というのは、きっとヤンのことを言うのだろう。
 しかし、面白くないのは俺と一緒にミサに来たグイードの奴、こんな時期に教会に務めるのはよほどのバカとしか思えんと言っていたことだ。神の力なんてものは、あと100年もすればたちまち立ち消える。我々の錬金術がいつか人々に欠かせない絶対的な力として君臨するのに、未来ある若者がいるかもどうかも分からん神に仕えるのはどうかしているだと。バカげている。
 神も錬金術も、人々をすべからく支配するほどの力はない。ただ、我々がもっと力強く生きるために必要な助力であるだけのことだ。俺は、何よりも自分たちが自分たちの頭で考え、判断し、そして行動することが大切だと思う。そのために、俺達は学び、努めなければならないのだ。黒死病の流行や戦乱で、俺の親や兄弟は死んだ。ヤンもそうだった。だからこそ、いつかの俺達のような子どもが、二度とあんな目に合わないように、もっとこの世の中を素敵なものへと変えていかなければいけない。いつか、きっと……


「助祭ヤン・ストシーブラの手記」
 1418年5月17日
今日のミサには、ヨハンたちが来ていた。自分がミサをしているときに、錬金術師が来るのを見たことがなかったので、少々びっくりした。同じ助祭のパウルは、信心深さのカケラもない輩が、何しに来たと言って、少し苛立っていた。パウルが言うには、錬金術師の殆どは悪魔の手先だという。神の真似事をして、教会を潰すつもりだとも言っていた。バカげた話だ。でも、パウルはヨハンが私と同郷だと知ると、ひどく怪訝そうな顔をしていた。同郷だからといって気を許すなと。彼はもうお前とは違い、神に仕える気持ちなどないのだ、と。私には、とてもそうは思えないのだが。
ミサ終わりに、ヨハンが私に話しかけてきてくれた、週末にストラホフの図書館へ連れて行ってくれるそうだ。修道院の中には何度か行ったことがあるが、そのときは図書館には行けなかった。とても見事だと聞いているので、楽しみにしている。彼は、研究のために必要な本を借りると言っていたが、彼が今行っている研究とはどんなものだろうか。今度話してくれるだろうか。
そういえば、裏庭のバラが花盛りを迎えており、とても良い香りだ。いくつか摘んで、今度ヨハンに持っていってみよう。でも、バラを持って城内をウロウロしていたら、変に思われるだろうか。まぁ、いいさ。気にしない。何はともあれ、今は久しぶりに週末がとても楽しみだ。互いを知り尽くしている友がいるというのは、何ものにも代えがたいことだ。
主よ、無力で非力な私に、心強い友を与えてくださり感謝いたします。


「錬金術師ヨハン・フラメールの手記」

1418年5月18日 天気・晴れ
今日の成果
 温度の調整をしてから2日目。渦の真ん中にあった小さな白い塊が少しずつ大きくなってきた。よく見れば、小さな突起物が4本ほど飛び出しそうにも見える。あれが手足になるのだろうか。経過は良好に見える。しばらく、このまま観察を続けていく。

出来事
ヤンと共に、ストラホフへとでかけた。彼と出会った時、何故か彼からとてもいい香りがしたので、自分がおかしくなってしまったのかと思うが、彼に聞くとイタズラっぽく笑って教えてくれなかった。変なやつだ。しかも、もっと不思議なことに、彼がしきりに俺の研究内容を聞いてくるので、少し戸惑った。どうして急にそんなものに興味を持ったのだろうか。まぁ、教えてやってもいいのだが、聖職者の彼に私の研究を伝えて悲しまれないだろうかとも思う。医学に近いことだと誤魔化したが、彼はあまり納得できていないようだった。何がそんなに気になるのだろうか。図書館では、生物標本に関する書籍と、医学書を2冊、そしてデカメロンを借りた。
ヤンは、俺が学術書以外も読むということに少し驚いていたが、俺だって驚いている。だって、彼が借りた本は詩歌本だったのだから。俺がからかうと、ヤンは少し拗ねた顔で
「詩の世界に浸っている間は、イヤなことを忘れられるから」
 と言っていた。何に悩まされているのか聞くと、彼は少し悩んで
「今は少し、言いにくい」
 とだけ言っていた。相変わらず困ったやつだ。ブリュンにいた時から、彼は悩みごとがあっても人には相談できずにいたのだった。だから、人目を忍んで秘密の遊び場で涙を流しているのを見つけたときになって、やっと彼は何があったのかを俺に教えてくれたのだった。あの時に、俺は彼に頼られるような友になるために、心を尽くしたのだが……彼はそれも忘れてしまったのだろうか。
 ペトシーンの丘のホスポダで、修道院で作られたピヴォ(ビール)を飲むと、ヤンはやっと顔を緩めてくれた。ヤンも俺と同じで周りの神父や助祭、侍者などとなかなか馴染めずにいるそうだ。彼の純真な信心深さと、今の教会との間に差ができていることは容易に想像できる。俺と同じように。悪口なんて言うべきじゃないだろうが、俺達の口をついて出てくるのは不平不満と、それに伴った下品な冗談だった。意地の悪い院長にどんなイタズラを仕込んでやろうかと、夜中の寄宿舎で考えていた時のことを思い出す。
 結局、彼は俺の居宅でさらに飲み明かした。そこで、彼は俺が今日一日不思議に思っていたことの種明かしをしてくれた。カバンの中から大量のバラの花弁が出てきたのだ。思わず大笑いしてしまったが、彼は修道院で手に入れた蜂蜜酒と合わせて作ってくれとせがむので、仰せのままに彼の好きなカクテルを作った。カバンから大量のバラを出すなんて、本当に天使のような奴だなと私が言うと、彼は照れくさそうに笑った。そして、彼は
「自分の秘密を君に明かすから、君の秘密も見せてほしい」
 と言ったので、俺は、お安い御用だと答えた。彼には何も隠したくないと、俺は改めて思ったのだ。
蜂蜜酒とバラ、野いちごでカクテルを何度も作って飲んでいるうちに、私は眠りこけてしまったようだ。目を覚ますと、ヤンは帰っていたが、部屋の中に残ったバラの香りが、また夢見心地にしてくれた。この香りがずっと残っていたらと思いながら、俺は二度目の眠りへと沈んでいくことにした。
 たまにはこんな日もいいだろう?



「助祭ヤン・ストシーブラの手記」

 1418年5月18日
 神よ、私は友の行いを止める必要があります。私は、彼の過ちを正す必要があるでしょう。ストラホフの図書館で彼がなかなか研究内容を教えてくれないので、私はあの地下への扉を開けてしまったのです。彼のためとはいえ、私の下賤な好奇心を、どうかお許しください。
 バラの花に喜ぶ彼の顔を、私は裏切ってしまった。親愛なる彼を……でも、彼が悪魔の誘惑に負けてしまうことだけは、どうしても防がなくてはと、思ったのです。私は、私の秘密と引き換えに、彼の秘密を求めました。彼の快い返事で私はあの扉を開けることを正当化したのかも知れません。私は、彼を守りたいと願いながら、彼の領域に土足で踏み入ってしまった。それも彼からの許しを得ないままに。私はどうしてしまったのでしょう。きっと、私は彼が私よりも遠い世界に行ってしまうことが……神の御心しか知らぬ私から、果てしない世界に行ってしまうことを恐れてしまったのかもしれません。人の手でたどり着けない、遥かなる深淵の世界、神秘の世界に、彼が囚われてしまうことを恐れていたのかも知れません。彼が求めているものを、私は受け入れることができないのでしょうか。神よ、私は自分のエゴを心から憎みます。彼と離れてしまうのを恐れる、私の心は何なのでしょうか。
 扉の奥は、私の理解には及ばない錬金術の道具があちこちに置かれていました。見たこともない薬草や鉱物、生き物の死骸や標本などが所狭しと置かれており、不気味な世界でした。その奥に、私は見てしまったのです。僅かな炎で温められたガラス容器の中に、小さな白い塊が見えました。中を覗き込むと、胡桃ほどの大きさの白い物があり、そこには黒い眼がありました。小さな手や足のようなものも見えます。直感的に気づきました。あれは人間の赤子だと。蝸牛のような渦を巻いて、時々その小さな手を微かに動かしていたのです。近くの分厚い書物にはホムンクルスと書かれていました。名前だけは聞いたことがあります。自然交配ではなく、人の手でゼロから作られる人……まさか、彼が本当にそれに手を染めていたなんて。
 恐ろしくなってしまい、私は安らかに眠る彼をおいて逃げ帰ってしまいました。明日から、私はどうやって彼を導きましょうか。そして、私も彼に秘密を打ち明けねばなりません。私にできることは、ただ彼に対して誠実に、正直にあり続けること。きっと、彼も神の御心に叶ってくださるに違いありません。私にできることは、今はただ彼と神のお導きを信じることだけです。あぁ、どうか彼が悪魔に誘われぬよう、回心できるよう祈っております。
神よ、どうか私が神の御心に叶う導きを彼に与えられますようにお力添えを。
 父と子と精霊の御名によって、アーメン。


「錬金術師 ヨハン・フラメールの手記」
1418年5月19日 天気・曇り
今日の成果
 小さな塊の中央に生えた4本のものが、徐々に手や足だと分かる形になってきた。頭のあたりには芥子の実ほどの黒い眼も見える。実験はほぼ成功と言っても差し支えない。あとは、これが順調に育ってくれるのを待つだけだ。これが育てば、きっと世の中は救われる。
これは俺にとって大いに喜ばしいことだが、これを共有できる仲間がいないことは、悔やむべきだろう。ホムンクルスは錬金術師の間でも、決して実現できないことの一つだと思われているらしい。首都の、それも王直属の錬金術師のギルドならば、そんなことはないと思っていたが、現実はそうじゃない。賢者の石のほうがまだ現実味があるとまで言われている。
 卑金属を貴金属に変えたところで、技術が前に進むにしても人は救えない。それよりも医療だ。戦乱や疾病により、四肢の欠損や皮膚の欠落など、人体に与えられたダメージは大きい。ならば、木製の無骨な義足よりも、自分の意志で動かせる腕や足を新たに作り出すことのほうが大切だ。ホムンクルスが秘めている可能性はそこにある。足のみや腕のみの生成が可能になれば、ブリュンにいる不遇の子どもたちを救える。動かせる四肢がなければ、まともに働くこともできないというならば、動く四肢を作ればよいのだから。
 出来事
 起きたのが昼過ぎで遅かったものの、この進捗にすっかりかかりきりになってしまって、外に出ることを忘れていた。ヤンが置いていってくれたバラのおかげで、部屋の中はまだ芳しい香りに満ちている。残っているバラを、他のハーブと一緒に蜂蜜酒に漬け込んでみた。きっと、次にヤンが来るときには飲み頃になっているだろう。
 ヤンは何をして過ごしているのだろうか? 彼が昨日の夜に言っていた秘密とは何なのだろうか。最近、王立教会の動きが不穏だとも聞いた。確かに、ここ最近になって異端審問の回数がとても増えている。街角に晒される異端者の数や火刑の回数も増えた。ヤンは、優しい男だ。イタズラをする俺を止めるときはあんなに強いのに、ニワトリを絞める作業は、結局修道院を出るまでに一度もできなかったくらいなのだから。彼にとって、今の広場の惨状はきっと耐え難いものがあるに違いない。ヤンは虫も殺せないような男だが、俺はそんなところがすごく好きだ。だって、彼以上に天使のような人はきっとこの世にいないから。
 ここ最近、毎日のようにヤンと顔を合わせているせいで、久しぶりに合わないでいると、なんだか変な気持ちだ。子供の頃は、毎日のように共に学び、共に遊び、そして共に悪巧みをしていた。あの頃にすっかり戻った気になっていたのだろう。
 研究の成果や、他愛もないことではしゃいでいると、時々ギルドの連中から「もっと大人になれ」と叱られることがある。何言っているんだか、俺はずっと俺のままだ。だから、この世を楽しめるんだろう?


「助祭 ヤン・ストシーブラの手記」
 1418年5月19日
 ヨハンのもとに行こうと思ったが、思いの外仕事が立て込んでしまって、終わったのは夜の八時を過ぎた頃だった。バラの花も散らかしたまま出ていってしまったので、なんだか申し訳ない気持ちだ。
今日はミクラーシュ教会での勉強会に参加し、その後は儀式用備品の調達や書類仕事などをしていたが、パウルがヨハンとの交流について忠告をしてきた。昨晩、錬金術師たちの住む集合住宅から出てきたところを見られたようだ。聖職者が異端な黒魔術を使う連中と関わるなとのことだ。王の命令で仕事が与えられているとはいえ、物好きな王の力がなければ彼らは簡単に悪魔と契約を交わし、いつか人間を悪の道へと誘うかも知れないだと。バカげた考えなので、無視しようとしたが、ベルナルト神父も錬金術師のことを嫌っているらしい。バレてしまえば立場はないということだろう。だが、彼らも私達も、王によって生かされていることは変わりない。役職が違うだけでいがみ合うのは神もお望みではないはずだ。しかし、パウルが言うことには、彼らは王からの命令とはいえ、あちこちの墓場から遺体を持ち帰っては、それで様々な実験や薬作りを行っているというのだ。近々、調査の手が入るらしい。私が関わっていたことが分かれば、私自身も教会も危ない。ただでさえ、民衆は教会手動の戦乱による不況で疲弊している。今の教会に揉め事は禁物だということだろう。パウルは二度と集合住宅地に行かないよう釘をさしてきた。だが、私はそんなことでは止まらないつもりだ。何故なら、ヨハンを救えるのは私しかいないのだから。
ヨハンは言っていた。周りに気のおけない友人がいないことが辛いと。ありのままの自分で話ができるのが私しかいないと言ってくれたのです。あぁ、神よ。闇の中にいる彼にとって、私だけが彼を導くことしかできないというのに、どうして彼を見捨てられましょうか。彼は言っていました。ブリュンにいた頃のように、強く勇敢な私が羨ましかったと。しかし、今の私はすっかり弱ってしまった。ブリュンの神学校で、あの神父が(ここから数行に渡って、文字がインクで塗りつぶされている)
――私は神を失ったかと思っていましたが、違います。神よ、あなたは夕陽に輝く麦畑の中にも、せせらぐ小川の中にも、花盛りを迎えるバラの中にもきっといらっしゃることでしょう。私は微細なこの世界の隅々に行き渡る、確かな愛でもって、悩める人々を救いたいのです。親愛なる友を、闇の中から救えるのならば、これは私にとって代えがたい誉れです。
神よ、私に力をお与えください。親友を救い、そして、私の胸にくすぶるこの気持に対して正直に生きられるように。


「錬金術師 ヨハン・フラメールの手記」
1418年5月20日 天気・晴れのち通り雨
今日の成果
 進捗なし。成長が止まったようにも見えるが、もう少し様子を見たい。

出来事
 中庭でヤンに会えたが、人気のないところで話したいと言うので、俺が少し前に見つけた弾薬庫裏の小さな森で落ち合った。どうも、教会の連中に俺たちのことで叱られたようだ。まぁ、仕方のない事かもしれない。
 だが、それ以上に驚いたのは、彼は俺がやっていたホムンクルスの研究について知っていたことだ。錬金術師の連中にも話していなかったことなのに。あの地下に作った研究室を見たようだ。ヤンはあの研究をやめるように言ったが、俺はもちろんやめる気はない。ヤンの立場上、そう言わざるを得ないということは分かっているが、俺の目的を聞けば、きっと彼だって納得してくれるはずだ。そう思って、目的まで話してみた。けれども彼はまだ戸惑っているようだ。
 俺は、彼に彼自身の秘密について聞いた。俺の秘密はもう無いのだから、聞いてもいいはずだ。ヤンは少し悩んで、そっと口を開こうとしたがその時に、とんでもない客人が現れた。ヴァーツラフ国王様だ。慌てて低頭するが、王は秘密の場所を他の者にも知られていることに少し驚いているようであった。王に謁見するのは初めてのことだ。すぐに立ち去ろうとしたが、王はお許しになられた。王は俺たちが思っていたよりも、気さくに話しかけてきた。というよりも、細かいことをあまり気にしていないようにも見える。低頭をやめるように言われ、俺とヤンに何の仕事をしているのかを聞き、そしてどうしてここが見つかったのかと聞かれた。この場所は、俺が野草を取りに行く近道として使っていたのが最初だった。だが、何かに疲れたりした時などは、よくここに来て薬草を取る傍ら、ぼんやりと時間をつぶすことにも使っていた。王も同じように、公務の合間に息抜きをするためにここに来ることがあるそうだ。酒が好きだと伺っていた通り、この森で葡萄酒を飲んだりもするらしい。そのことで少し前に家臣に怒られたという話もしていただいた。
 王は、ヤンと俺が一緒にいることを不思議に思っていたが
「異なる務めを果たす者たちが、互いに交流し新たな力が生まれるのならば良いことだ」
 と仰った。あまり気にするなとだけ言って、王は去られた。
 ヤンは王に働きぶりが良いと褒められており、顔を真赤にして恐縮していた。ヤンも王に謁見するのは初めてだったのだろう。
 王の登場ですっかり何のことやら忘れてしまい、私達は解散した。やれやれ、別の場所を探す必要がありそうだ。




「助祭 ヤン・ストシーブラの手記」
1418年5月20日
 あれだけの決心をしたにも関わらず、言うべき時に言うべきことが言えない自分が本当にイヤになる。偶然とはいえ、王との謁見は、私にとって最大の好機だったはず。なのに、私は決定的なその好機に勇気を出せなかった。教会主導による市民からの搾取、そして異国への攻撃、すべて神の御心がお許しになることではないはずだと伝えるべきだったのです。でも、できなかった。
 王は、ヨハンが行っている薬剤の調合、そして後ろから聞いたホムンクルス研究について感心しておられました。王が私に話してくださったのは、教会での勉強会で教鞭をとることだけ……近々、神父に昇格できるように打診すると言ってくださりました。それはとてもありがたいのですが……王は、ひょっとしたら教会や神に、そこまでの関心を寄せていらっしゃらないのでしょうか。だとすると、私のすることは無意味になるでしょうか。
 もし、また王にお会いできる機会が与えられたときには、きちんとお話がしたいと思います。しかし、もし王が……いや、「もし」「もし」などと考えるのはもうやめましょう。
 しかし、ヨハンの話していたホムンクルスについても、私の中で整理がつきにくいままです。傷ついた人のために作っていると聞きましたが、でも、完全な肉体に魂が宿った状態で生まれた場合、そのホムンクルスはどうなるのでしょう。腕や足を切り落とされて、使えるところが無くなったら捨てられるのでしょうか。ヨハンは、いずれ必要な部分だけの生成が可能になると言っていましたが、その前の段階に付きまとう犠牲はあまりにも大きくはないでしょうか。
 とはいえ、今日のヨハンとの会話は王の登場により不完全燃焼に終わってしまったのも事実。もう一度、ちゃんと話を聞くべきかも知れません。私も、彼に務めを果たさずにいるままです。彼は、私の思惑を聞いても、許してくれるでしょうか。ずっと、良き友のままでいてくれるでしょうか。いえ、ヨハンの心を疑うだなんて、どうかしています。ヨハンは善良な男です。彼の心を、私は信じます。
 明日、もう一度彼に会って話をします。神よ、どうかお導きを。


「錬金術師 ヨハン・フラメールの手記」
1418年5月21日 天気・小雨
 今日の成果
 進捗なし。手足はまだ動いているが、大きくはなっていない。引き続き、経過を観察する。
 出来事
 宮殿内の裏庭から出て、少し進んだところに小さな泉があることを知るのは、俺だけだと信じたい。ヤンが教鞭をとっていたミクラーシュ教会の懺悔室で、俺はヤンに落ち合う場所を教えた。彼の話を、改めて、ちゃんと聞いておきたかったからだ。
実際のところ、ヤンの秘密というのを聞いて、俺は驚くと言うよりも納得してしまった。そして、今まで以上に、やはり俺は彼のことをとても尊敬していて、親愛の情を抱いているのだと確信した。彼はそういう男なのだ。自分以上に他者を思うからこそ、常に自分自身に厳しくある。俺ができることは、彼に対して誰もができないことをすること。つまり、すべてを許し、受け入れ、共有して、楽しむことだ。もう二度と、彼が深く傷つくことのないように。いや、傷ついてもまた笑顔で過ごせるように。
 彼は、明日から行動を起こすらしい。彼の表情は、最初に首都で出会った時以上に輝かしく見える。朝日を受けながらこちらを見た、あの時のように。頼もしい彼の表情を見て、俺は彼に約束した。ホムンクルスを決して不幸な存在にはしないと。魂が宿ったときは、相手の意志を尊重し、生きたいように生きさせてやりたい。こんな時代だ。奔放に、何も考えに生きられる存在がいたっていいはずだ。医療としての使い道が確実なものとなるまで、俺はこれを守り続ける。
 俺たちは、互いに互いが道を踏み外した時に、また正しい道へと戻れるように、誓いを立てあった。ヤンの心が折れそうになったときは、俺は彼を励まして、助ける。俺がホムンクルスをないがしろにしそうになったら、彼が俺を叱責し、導く。神の名のもとに、俺たちは誓いあった。周りに何を言われようが、知ったことじゃない。俺たちの生きる道は、俺たちだけのものだ。互いの使命のために生きて責められるなんて、そんなバカなことはあってはいけないはずだ。
 誓いの際に握りあったヤンの手は、細いのに力強かった。白い彼の手を強く握ると壊れてしまいそうな気がしたが、そんな心配をよそに、彼は力いっぱい俺の手を握り、空を映した泉のような青い瞳を輝かせて、笑った。
さぁ、ヤンの正しい悪巧みの始まりだ。

「助祭 ヤン・ストシーブラの手記」
1418年5月21日 天気・小雨
 神よ、ヨハンは私に与えられた、生涯最大の恵みでしょう。今日、私は隠れた泉のほとりで誓いを交わし合いました。ヨハンは私の言葉に耳を傾け、そして受け入れてくれました。ブリュンでの忌まわしき思い出も含めて、彼は茶化すことなく真剣に耳を傾けてくれました。もちろん、例の研究に関しても。私の言っていることが、どれだけ彼にとって無茶なことだとしても……いえ、彼に無茶と言うのは失礼ですね。彼はきっと実現できる人です。天才的な技量でもって、きっと成し遂げるに違いありません。
 私は明日から、教会の勉強会などで、少しずつ正しき神の御心を説いてゆきます。たとえそれが、王や王立協会に咎められるものだとしても、私は成し遂げます。もう、広場に晒される人や、戦で傷つく戦士たち、街角に佇んで施しを待ち続ける子供も、天国からは程遠い有様です。神の御心があるのであれば、きっと救えるはずです。ヨハンは、私のこの行いに心から賛同し、応援すると言ってくださりました。
 そして、もう一つの使命はヨハンのためです。ヨハンは、ホムンクルスの魂についても考えてくれました。私の我儘ともいえる望みに対して、森を思わせる深緑の瞳を逸らすことなく最後まで聞いてくれました。あぁ、ヨハン。私は二度と君から、離れることはないでしょう。
 彼の手を握りしめたのは、本当に久しぶりことです。子供の頃、夏の日に小川に飛びこむのを怖がるヨハンの手を握ったのが最初だったでしょうか。その頃とは比べ物にならないほど、彼の手は大きく、温かく、私の手をすっぽりと包んでしまいそうなほどでした。頼もしい限りです。
 ヨハンは言ってくれました、私達の人生は私達のものだと。その通りです。私達が信じる使命のために、私達は生きているのですから。私達の使命は2人のもの。私達2人が離れることがない限りは、きっとこの誓いはいつまでもいつまでも、滅することはないでしょう。
 神よ、これまでのお導きに感謝すると共に、今後、我らが歩む道にもその光を照らしてくださいますように。


「錬金術師 ヨハン・フラメールの手記」
1418年5月22日 天気・曇のち晴れ
 今日の成果
 中身の動きが完全に止まっているように見える。だが、塊の中心にある赤い小さな丸いもの(心臓と思われる)がまだ少しだけ拍動して見えるので、まだ様子を見たい。未だ嘗て無いほど、上手くいっているのだから、せめてもう少しは……

 出来事
 工房で作業をするのが面倒なので、今日は一日家で実験に勤しんでいた。明日は定例報告会があるが、まぁいつものようにあのくだらない賢者の石のことでまとまりのない話をして終わりになるに違いない。王がなぜ、あんな石にこだわるのかは理解できないが、富と命は永久に人類が追い求め続ける秘宝であることも、まぁ理解はできる。
 今日はヤンには会わなかった。居宅に連絡に来たグイードも、俺とヤンとのことについて苦言を呈してきた。仲良くしたところで何の利益もないと。利益だなんだと追い求める姿は錬金術師としてふさわしくないと思うのだが、彼に言っても無駄なことだろう。とはいえ、ヤンも教会の連中から目をつけられているとも聞いているし、しばらくは時間をあけた方が良さそうだ。ここ数日間で、俺達はあまりにも会いすぎたかもしれない。しかし、自分で選んだ探求の道とはいえ、彼に会えないのはなかなかに辛い。ヤンとくだらない話をして、笑いあいたい。あのバラを入れた蜂蜜酒もそろそろ飲み頃だ。先んじて少し味見をしてみたが、とても美味しくできている。早く飲ませてやりたいが、ヤンは今日も別の教会で教鞭をとっているようだ。夜更けに、俺も正しい悪巧みをしてみようか。

「助祭 ヤン・ストシーブラの手記」
1418年5月22日
 今日は、午前にミクラーシュ教会、午後にティーン教会で侍者向けの説法を行った。私の発言に最初は彼らも驚いていたが、言葉を尽くして話していくうちに、彼らは私の方を真っ直ぐに見据え、聞き入ってくれているようにも見えた。今までの勉強会ではなかったことで、説法終わりに彼らが質問しに来てくれた。それも、大勢。私の説法に同意してくれる者や、疑問をぶつけてくる者、今後についてなど、様々な声が聞くことができた。それだけでも、今日一日はとても有意義だったと言える。幸いにも、最近はパウルも他の勉強会にかかりっきりでついてこないので、2つの教会で同じような反応を見ることができた。やはり、ヨハンの言う通り、行動してよかった。
 一日中熱心に喋り倒したおかげで、疲労はかなり溜まっているが、それすらも少し心地が良い。私の話し方の拙さもあるので、明日はもっと分かりやすくまとめて話をしていきたいと思う。
そういえば、今日はもう一つ嬉しいことがあった。明日の勉強会での準備をしていると、窓辺に音がしたので見ると、小さな小瓶が置かれていた。薄い桃色がかった液体で、手紙が添えられていた。ヨハンからだった。私があの日に置いていったバラを、蜂蜜酒に漬け込んでいたようだ。今が一番飲み頃だから飲んでほしいとあったので、寝しなに一口飲んでみた。香り高いバラの香りに、まったりとした蜂蜜の甘さ。疲れきった全身に染み渡るような滋味だった。おかげで、今すっかり眠くなってしまった。本当はもっと色々書こうかと思ったが、やめだ。ヨハンの好意に甘えて、今日はゆっくりと休むことにする。きっと、今宵は深く心地よい眠りになりそうだ。


「錬金術師 ヨハン・フラメールの手記」
※その前3日分の日記が落丁している。
1418年5月25日 天気・晴れ
 今日の成果
 塊が溶け出してきた。炎の関係かと思い調整をしたが、止まる様子が見えないまま、あっという間に、液体に戻ってしまった。振り出しだ。もう一度やり直さなければならない。
 出来事
 ずっと様子を見続けていたホムンクルスが溶けてしまった。成功を示す微かな光が見えていたからだろうか。胸が痛んで仕方がない。ヤンと約束した矢先の出来事というのもある。なんだか心がザワついてしまう。
 溶けてゆくホムンクルスの塊をどうにかしようと一日中あがいていたせいで、すっかり夜になってしまった。食事も忘れていたので、もう耐え難い空腹だ。こんな時に食事をするのも憚られる気がしたが、そんなことを言っていられないほど辛い。この3日間、ホムンクルスの様子が急に不安定になっていたので、外にも出ていなかった。ホスポダに行こうと外に出た時、若葉の芽吹く青臭い香りが鼻をついた。俺は、この香りがあまり好きではないのだが、この日だけはこの忌々しい空気を胸いっぱいに吸い込んでやった。
 古い葡萄酒を飲み、イノシシのシチューを食べたあと、しばらく葡萄畑を散策した。空には無数の星が輝いているのに、旧城壁あたりはまだ煙の匂いがしている。ヤンが忙しく歩き回っているということは、宮殿内でも噂になっている。神父へ昇格する儀式が明日にも執り行われるそうだ。あまりに早いのだが、これは訝しむべきことではないだろう。
 ヤンにも久しく会っていない。宮殿敷地内でたまにすれ違うくらいだが、顔は生き生きとしているので安堵している。良かった。彼の行動で、きっと世界はもっと明るくなるはずだ。俺も、落ち込んでいる場合ではないな。


「神父 ヤン・ストシーブラの手記」
※その前4日分の日記が落丁している。
1418年5月26日
 神よ、私に心強い味方をお与えくださり感謝いたします。神父としての命を受け1日が立ちましたが、ヴァーツラフ国王のご厚意により、今までの勉強会の継続もお許しになられた事もあって、徐々にその場は広まりつつあります。
 今日は、勉強会に熱心に出席していた王立大学の教授であるアダム・フスからの熱い依頼で、初めて大学での講義に参加しました。大学という場所に入るのは初めてのことでしたが、私の想像以上に学生たちは皆熱心に話を聞いてくださりました。質疑応答は1時間以上にも及びましたが、もう慣れっこです。アダム教授は私の主張に大変賛同してくださっており、講義の後も様々な話で盛り上がりました。私以外にも、同じ考えをしてくれる人がいるのです。
「あなたの主張を面白く思わない人もいるでしょうが、どうか気にせずに」
 と、アダム教授は仰ってくださりました。ありがたい話です。
 実のところ、神父になる儀式にヴァーツラフ国王が参列していたのが少し気になっていました。儀式のあと、国王は私に近づき
「穏便に」
 と一言だけ申されました。私はその意味を考えるのが、少し恐ろしいのです。しかし、一度決めたこと。私は最後まで成し遂げます。
 ここ数日、ヨハンときちんと会えていませんでした。宮殿内で見かける彼は、少し落ち込んでいるようにも、疲れているようにも見えたのです。私は、真夜中に集合住宅のヨハンのもとへと行きました。彼はベッドの上で項垂れていました。理由を聞くと、ずっと上手くいっていたホムンクルスが溶けてしまったというのです。私に謝るヨハンは、かつての子供の頃のようでした。何かに怯え、恐れているような。私は彼の近くで彼をなだめ、そして彼の告解と祈りを聞き届けました。彼はややしばらくの間、私の腕の中で微かに震えていましたが、そのうち落ち着いたのか眠りに落ちました。本当に、変わらないのですねヨハン。彼の、変わることの無い純真さが本当に好きです。蝋燭の炎を消して、彼を抱きかかえたまま、しばらくの間私は窓から見える夜空を見ていました。ひときわ大きな星が空を横一線に流れていくのが見えました。希望の兆しでしょうか。ならば、それは彼のものであって欲しい。
 私は眠りこける彼にしばらくの間語りかけて、そして彼を寝かしつけてから去りました。神よ、彼にどうか祝福をお与えください。

「錬金術師 ヨハン・フラメールの手記」
 1418年5月26日 天気・晴れのち曇り
 今日の成果
 なし
 出来事
 真夜中に現れたヤンは、天使そのもののようだった。蝋燭の光を受けて佇む姿があまりにも神々しいので、俺は最初直視できなかった。でも、彼にすべてを話していくうちに、俺の心がどんどんと軽くなっていくのが分かった。それこそ、天国へと昇るように。気がついたら、ヤンはいなくなっていたが、彼が最後まで見守っていてくれたことは何故か分かった。彼に甘えってしまったような感じがして、少し照れくさい。でも、彼になだめられている間、俺はブリュンでのことを思い出していた。幽霊話を聞いて眠れなくなった時や、大きな間違いを犯した時、彼はいつでも俺を励ましてくれていた。神父になろうが、何になろうが彼は変わらない。でも、きっと次は俺が彼のことを助けてやりたい。そうしないと、なんだかむず痒くて仕方がないのだから。


「神父 ヤン・ストシーブラの手記」
1418年5月27日
3日前の旧城壁付近で起こった火事の原因が判明。王立大学の学生によるものだったらしい。それも、教会で私の講義に参加していたアダム教授たちの教え子が首謀者だったようです。捕まってしまった彼らの懺悔を聞くという名目で、監獄塔まで会いに行きました。彼らは、私の講義を聞いて行動したと言っていました。教会と王が悪いのであれば、力で行動するしかないというのです。私はそんなことを望んではいませんでしたが……言い訳のようですね。
アダム教授はすぐ私のもとに来ました。彼らのしたことを許してほしいと。もちろん、赦すつもりでしたが、アダム教授は続けました。講義をやめないで欲しいと。アダム教授が言うには、今の学生たちは教会そのものに強い不信感を抱いているとのことで、教会から来た私が話す内容を聞いて、正しい道へ歩みたいという意識が高まったというのです。そして、その機運が高まっている今だからこそ、彼らのためにも続けてほしいと。きっと、彼らはいつか私の願う世界を作る人となるからと。
私は、自分のしたことが途端に恐ろしくなりました。争いを鎮めるために行ったことが、新たな争いを生んでしまうのでしょうか。
しかし、なぜでしょうか。私は講義を止めようと思わなかったのです。今日も一日中、あちこちの教会で説法と講義を行いました。何かが私に取り付いたかのように、私は人々に神の御心を説きました。平和を、祈りを、説きました。きっと、いつか平和が訪れると、信じているからでしょう。
しかし、宮殿敷地内に戻ると、パウルらの目線は厳しいものがありました。無理もありません。私が出入りしていた大学の生徒が起こしたのですから。居心地が悪くて仕方がありませんが、ヨハンのもとに行くのも憚られます。毎晩、少しずつ飲んでいたあの蜂蜜酒も底をつきてしまいそうですが、今は耐えることが大事かもしれません。

「錬金術師 ヨハン・フラメールの手記」
1418年5月27日 天気・曇のち雨
今日の成果
新しいホムンクルス作りに取り掛かる。失敗の原因を探ると、どうやら内容液濃度のようだ。低温とはいえ、長時間温められたことと、外気による酸化も関係していそうだ。容器内の環境を整え、内容液濃度も改めた。
出来事
旧城壁付近での火事は、王立大学の学生によるものらしい。ヤンは最近、王立大学でも講義をしたと聞いた。何も起きなければいいが……
グイードが言うにはここ最近、あちこちで教会への反対運動が少しずつ動き始めているらしい。あくまでも噂の範囲内だが、あまりにも騒ぎが拡大するようであれば、王も黙ってはいないだろう。ヤンを守るにはどうしたら良いだろうか。ほとぼりが冷めるまで、動きを止めてもらうか? いや、そんなこと、彼にさせたくない。講義に向かう彼の顔が、とても明るいのに、どうして止められるだろうか。でも、もしものことがあったら……
ヤンと話をしたいが、今日は宮殿内であまり見かけない。講義を続けているのだろう。何か、俺にできることはないだろうか。俺は、どうしてこういう時には役に立てないのだろうか。大事な時は、いつもヤンに頼りきりだ。
そういえば、薬草を取りに裏手の森に行くと、またヴァーツラフ国王がいた。国王は、どうやら俺を待ち受けていたようだ。ヤンのことについてだった。彼が何か企んでいやしないかと。もちろん、俺の答えは「Ne」だ。俺は、彼がいかに信心深く、そして誰よりも神の御心に従う男かと語った。王は俺に忠告した。
「何かを隠しているようなら、君だってタダでは済まなくなるからね」
 だと。腹立たしい。それにホムンクルスについても聞いてきた。友達とはいえ、ヤンが反対すると思ったのだろう。もちろん、それも否定し、俺の目的を話すと王は言った。
「ホムンクルスは兵士と労働力になりえる財産だ。民への貢献は、国が本当の平安を取り戻してからのこと」
 と。これは、いけない。このままでは俺は腹が立ちすぎてどうにかなりそうだ。もちろん、気持ちを抑えてやり過ごしはしたが、でも、状況は思っているよりも悪くなっているのかもしれない。
 ヤンに会わなければ。でも、どうやって落ち合おう。しばらく時間をあけた方が良いだろうか。いや、それでは遅くなる。明日には、どうにか行動を起こさなくては。


「神父 ヤン・ストシーブラの手記」
1418年5月28日
 王立協会から直々に、講義の中止を命じられてしまいました。大学への調査が入るからというのが中止の理由ですが、それはあくまでも建前でしょう。アダム教授に中止のことをお伝えすると、教会や大学内ではなく、秘密裏に行いましょうと提案されました。教授がそこまで私の講義に拘る理由は分かりませんが、それでも求められているのならば応じなければと思うのです。
 教授が近々、講義を行える場所へと案内してくれるそうです。教授も言っていましたが、ほとぼりが冷めるまでは下手に動くのを避けたほうが良いでしょう。私は教会内での奉仕活動や国史編纂などの手伝いに一時的に参加することにいたしました。何もせずにいることは性に合いません。
 奉仕活動の一環で、宮殿内の集合住宅に行った時、隙を見てヨハンと会いました。現状のことを話すと、彼は王に言われたことを教えてくれました。ヨハンも疑われているようです。ならば、なおのことしばらくは大人しくしていたほうがよいでしょう。しかし、ヨハンは一つの懸念を示していました。アダム教授に関してです。彼は以前から王立協会に対する不信感を抱いており、それにまつわる講義や演説などで度々、王立協会から厳重注意を受けていたというのです。あまり深く関わらないほうが良いというヨハンの意見も分かりますが、ただ教授は私を利用するだけだという彼の意見は俄には信じられません。教授は確かに確固たる思想で動いている人ですが、生徒たちを思いやる慈しみ深い人物だと思います。私のことを利用するだけの手駒として見ているとは、とても思えないのです。
 ヨハンは、あまりにも状況が悪くなりそうならば、首都を出て逃げようと提案してきました。遠い街でも、きっと自分たちのできることは叶うはずだと。2人でいるのが、一番安心できるからと。彼の申し出はとても嬉しいのですが、でも救うべき人たちがいるのに、それを放って自分の欲求に従うのは、気が引けます。
 ヨハンが私を常に案じ、想ってくれていることは私にとっての希望です。だからこそ、心の底から、彼とともに過ごす時間を楽しめるように努めたいと願っています。今は、耐え忍ぶときです。私を想うヨハンが、背中に当ててくれた大きな手のひらの温もりだけが、私の心の支えです。


※数ページに渡り、落丁あり。
「錬金術師 ヨハン・フラメールの手記」
1418年6月4日 天気・雨
今日の成果
胎児の形にまで成熟。生命活動も停止されていないので、今度こそ成長の兆しが見える。
出来事
 ここ数日は、宮殿内もいたって穏やかだった。唯一、ヤンの姿が見えないこと以外は。ヤンは宮殿敷地内を中心に仕事をしていると思っていたのだが、ここ最近どんな時間帯でも彼の姿が見られない。静かすぎて不気味な感じだ。真夜中に居宅を抜け出して、ヤンの元へ向かった。寝静まった聖職者用の居宅から、静かに出てくるヤンの姿が見えた。彼に声をかけようと思ったが、周りを気にしながら隠れるように移動する彼を見て、俺は嫌な予感を感じた。
 ヤンがたどり着いたのは下町の外れにある、朽ち果てた教会だ。少し登って教会の中を覗くと、ヤンを中心に王立大学の学生とアダム教授が車座になって座っていた。ヤンはその中心で講義を行っている。ヤンの言葉一つ一つに対して、時折学生たちが歓声をあげていた。歓声を浴びるヤンの姿はどこか高揚しているようにも見え……不思議と、なんだか恐ろしく見えた。
講義が終わるまでしばらく待ち、ヤンが出てくるのを待った。ヤンが出てきたところで彼を捕まえて無理やり馬車に乗せた。驚くヤンに、俺は危険だと伝えたが、彼は自分の使命に本気で、これを止めて生徒たちをガッカリさせたくないと言っていた。でも、俺はヤンが今しがた語っていた講義はもはや講義ではなく、演説のようにも見えた。バレてしまえば、いよいよヤンが危ない。俺は止めるように伝えたが、ヤンは俺のホムンクルスに関して言及した。
「上手くいっているとも何とも言わないのは、キミが使命を持っていないからではないのか。何故私に伝えてくれないのか。私では、理解できないと思っているのか」
 とヤンは声を荒げていた。俺も言い返そうとしたが、やめた。こんなことしたくないが、彼を突き放した。馬車から降りて、彼に背を向けて去った。情けない。こんな子どもじみた言い合いだなんて、したくなかったのに。彼のことを守りたいだけなのに。

「神父 ヤン・ストシーブラの手記」
1418年6月4日
 神よ、私はとんでもないことをしてしまいました。唯一無二の親愛なる友に、私は子供じみた怒りをぶつけてしまったのです。どうすれば、彼は私を許してくれるでしょうか。
 ヨハンが、私のしている講義はもはや演説であって、神の御心を広めると言うより、自分の主張を広めているだけではないのかと彼は言いました。彼の言うとおりかも知れません。
ブリュンにいた頃から、誰も彼もが、私の言うことを無視し、私の訴えを無いものとされ続けてきました。あの寮長の所業に関して私が訴えたときも「どうせ子供の言うこと」と無いものにされ続け、首都に来てからも私の意見は一度も王立協会で取り上げられることはありませんでした。私が、人々が私の言葉に耳を傾け、賛同してくれる高揚感に酔いしれていたことは間違いありません。ヨハンはそれを指摘してくれたのに、私はそれを無下にしました。本当に愚かです。
神よ、盲目で無礼な私をお赦しください。ヨハンは私に与えられた最大の宝物なのに、私はなんとひどいことをしてしまったのでしょうか。どうか、私に悔い改める機会をお与えください。彼に心から謝りたい。彼を失いたくない。彼の心をまた取り戻せるのならば、この土地を去ることになっても構いません。どうか、神よ。私に機会を……


「錬金術師 ヨハン・フラメールの手記」
1418年6月5日 天気・雨
今日の成果
胎児は更に成長し、人間の赤子とほとんど変わらぬ大きさになった。まるで奇跡だ。あと少し、この状態が安定するまでを見守りたい。

出来事
 昨日とはうってかわって、宮殿敷地内は何やら騒がしかった。工房に他の錬金術師もいなかったので、敷地内を彷徨っていて、ようやっとグイードを見つけた。聞けば、王立大学のアダム教授と数人の学生が捕まったそうだ。罪状は反逆罪。件の火事を首謀し、実行を指示したのがアダム教授だと、学生の一人が口を割ったそうだ。
 明日の朝からアダム教授たちの裁判が行われる。有罪になる可能性のほうが高いが、そうなれば3日以内に火刑に処されるだろう。
 ヤンが危ない。ヤンが隠れて禁止されていた講義をしていたことが分かれば、反逆罪や異端者と取られても仕方がないだろう。もう、彼と共に逃げるしかない。首都での生活に未練はない。むしろ、彼とともにまた新しい生活が始められるのであればそっちの方がずっと良い。
 真夜中に、俺はヤンのいる居宅へ、窓から入り込んだ。幸いなことに、ヤンはいた。ヤンは昨晩のことについて気まずそうにしていたが、俺にはそんなことどうでもいい。俺だって、彼と話し合わずにその場を去ってしまった。それこそ無礼だ。
 俺は荷造りし、あの泉で落ち合うようにヤンに言った。共に首都を出ようと提案すると、彼はうなずき、微笑んでくれた。互いの無事を祈って、抱擁しあい、俺たちは一度別れた。
 泉に着いたのは俺が最初だった。茂みの中に潜んで、ヤンを待っていた。ヤンのいる家は泉からは少し遠い。時間はかかるだろうが、気が焦って仕方がなかった。早く、ヤン。早く来てほしい、とずっと神に祈っていた。
 一時間以上経った頃だろうか。泉のすぐ近くにある城壁あたりが騒がしくなった。物陰から見ると、そこにはヤンがいた。ヴァーツラフ国王と、近衛兵に囲まれて。国王は
「君は使命というものを履き違えているようだ」
 と言って、近衛兵にヤンを連行させた。俺が飛び出ようとすると、国王が剣の鞘で俺を押し返した。一度も後ろを見ずに。近衛兵たちがヤンを連れて立ち去ると、国王は従者達を含めて人払いをし、倒れた俺の方に来た。泉の場所とその意味を知っていたのだ。
「君の力はこの国に必要不可欠なものだ。見逃してやるから、今日は去りなさい」
 と国王は去っていった。ヤンの処遇について聞くと
「彼次第だろう。私にとっても、彼は少し惜しい」
 とだけ言って去っていった。
 とてつもない無力感に襲われて、俺は倒れたまま立ち上がれなかった。俺が、こんな提案をしなければこうはならなかっただろうか。いや、もっと早くに彼に伝えられていたら……
 明日は、必ずヤンの元に行かなければ。まだ、まだ何かできるはずだ。


「神父 ヤン・ストシーブラの手記」
1418年6月6日
 獄中に入れられたものの、国王の慈悲で手記帳と十字架の持ち込みだけは許された。うかつだった。遠回りをしておけば……あるいは、遠回りしてでも違う道で泉に向かっていればよかったのに……焦る気持ちが抑えられずに、危険な道を歩んでしまった。
 城壁の影で、倒れ込んだヨハンの姿が見えた。彼は無事だろうか。彼も捕まってしまっていたらどうしよう。神よ、せめて彼の命だけはお守りください。
 昼頃に、国王がいらっしゃった。講義の内容について聞きたいと言ってきた。先の十字軍侵攻などに関して、否定的な内容を話していたのかを聞きに来たのだろう。私は、正直に答えた。十字軍は神のための行いではないと。
「では、私は地獄に落ちるか? 」
 と、国王様は聞いてきた。悔い改めれば主は許されると答えると、王は笑った。
「悔い改めるだけで許されるのならば、神からの咎めも恐れるに足らん」
 王は聞きたいのだろう。私やアダム教授が、何故この講義を続けていたのかを。私は、すべて正直に話した。心からの平和を願っていること。たとえ同じ神を信仰しておらずとも、我らの神はお許しになると。共存していく道もあるはずだと。そして、神の名のもとに暴力と搾取を続けるのは、神への最大の侮辱であると。
「正しいだけの人間は、やはりつまらんな」
 王はそれだけ言って立ち去ってしまった。正しいだけの人間も、そうでない人間も等しく過ごせる世界こそ、一番の平和だと私は思うのだ。きっと、王には分かるまいが……
 午後に、ヨハンが来た。なぜかは分からないが、心配そうで情けない顔をしているのがおかしくて少し笑ってしまった。ヨハンはしきりに、謝る必要のないことで私に謝っていた。
「必ずどうにかする」
 と息巻いていたが、私は正直このまま流れに任せても良い気がした。ヨハンは反対していたが、今の私は自分以上にヨハンが無事であることが嬉しいし、彼のためならこの身が朽ちても構わないとさえ思ったのだ。ヨハンは目に涙を溜めていたが、できる限り毎日ここに来ると約束してくれた。
 私にとっては、今はそれだけでも十分生きがいになる。

「錬金術師 ヨハン・フラメールの手記」
1418年6月6日 天気・雨
今日の成果
省略。
出来事
 ヤンへの面会が許され、短い時間だったが彼と話すことができた、やはり、ヤンは強い。こんな状況でも、情けない俺の顔を見て笑ってくれていたのだから。元気そうなヤンの姿に安心できたと同時に、今後の行く末をただ案じるしか無い自分にも嫌気が差した。後悔のないように、毎日彼に会いに行くと約束したが、もっと、何か手段が欲しい。
 工房にも顔を出さず、ヤンを救い出す方法をひたすらに考えた。火薬を使って壁を壊す方法を思いついたが、それではヤンに危害が加わる可能性もあると同時に、大きな音で人に気づかれてしまう。鍵をこじ開ける方法も考えたが、これでは時間が稼げない。今、宮殿内は近衛兵を含む様々な兵士たちで守りを固められている。アダム教授の策謀による謀反が再び起こるのを警戒してのことだろう。彼らの死刑が決まったというのもある。鍵を開けたところで、見つかってしまうのは時間の問題だ。
 自室に籠もっていると、グイードが俺を叱りに来た。というよりも、心配してくれていたのかも知れないが。ヤンの逮捕で俺が気落ちしているのに気づいたのだろう。それに、俺が何かを企んでいることも。グイードは変なことを考えるなと俺を叱りつけた上で、工房が大変なことになっていると伝えた。一部の実験が失敗して、ちょっとしたボヤ騒ぎになったらしい。後片付けが大変だから、手伝えということだ。
 工房が燃えようがどうしようが、もはや俺の知ったことではない。けれど、俺はあることに気がついて、工房に向かうことにした。最悪の自体を防ぐ手段が見つかるかも知れない。


「神父 ヤン・ストシーブラの手記」
1418年6月7日
アダム教授と生徒たち、そして私の裁判が始まった。裁判というよりも、結末の決まりきった話に、何かしらの理由をつけて説明をする会のようにも見えたが。アダム教授は最後まで教会による搾取と十字軍を批判し、最終的には王の名を侮辱した。アダム教授の良くないところだ。感情が高ぶりすぎると、言わなくていいことまで言ってしまう。
教授たちの後に私が法廷に出ると、ざわめきが聞こえた。王立協会の連中たちだ。まぁ、戸惑うのは当たり前だろう。少し離れたところにパウルの顔が見えた。睨んでいるようにも、怯えているようにも見えた。
私の講義に関する内容が、いかに王の名を貶め、神の名を語りながら悪の道へと誘う邪悪なものであったかと言う内容の供述がダラダラと続いた。王は私の方をじっと見据え、ある時に裁判長を制して前に出た。ただ見るだけかと思っていたので、私も面食らったが、王は私にこう問いかけてきた。
「神への奉仕を教会が代行することの何が神への不敬だと思うのか? 」
 私は「神は供物などの奉仕を望まず、人が人として成すべきことを成すことに重きをおいた。教会が代行で奉仕を民衆に強いるのは、本末転倒と言わざるを得ない」答えた。
「異教徒さえも我々と共存できるとお前は言ったが、そんな言葉は聖書にはない」
 と王が言うので、私は「だが、彼らを殺して支配下におけとも書かれていない」と答えた。教会の連中がよりいっそうざわめいた。
「神は弱きを助けると思うか? ならば、何故信心深いお前は今この場所にいる? 」
という王の言葉には「たとえこの先に何が待ち受けようとも、私の心はきっと救われます」とだけ答えておいた。王は笑顔を浮かべたが、明らかに苛立っているように見えた。
 結局、私は反逆罪と異端者であることを理由に火刑が決まった。彼らの信じる神と、私の信じる神は、どうやら違っていたようだ。
 小さな窓から見える空はずっと雨模様だ。そんな天気がずっと続いているのに、ヨハンは今日も来た。私の落ちぶれた有様を見て、心を痛めているようにも見えた。私がなだめても、彼は泣くのをやめない。火刑は明日の夕方。少々早すぎる気もするが、神に祈る時間は十分に与えられた。ヨハンはしきりに「どうにかする、どうにかする」と言っていたが、彼にこれ以上の危険を犯してほしくない。この手記を、明日の火刑の前にヨハンに託すように決めた。彼は明日の朝来てくれる。日々のことを綴るのは、少し億劫だったが、それでも楽しかった。


1418年6月8日
 親愛なるヨハン
 懐かしいブリュンを離れて、再び君と首都で出会えた奇跡の日を思い出す。私達2人は、互いに違った使命を持ち、違った目的と世界の中に生きていたにもかかわらず、そのどれにも属さない話で楽しい日々を過ごせたことを、本当に心からうれしく思う。私達はきっと、どんな言葉でも言い表せない確かな繋がりによって、結ばれていたと思う。
 ヨハン。私は君にただ望むのは、神や運命を憎まないことだ。私は幸せだ。最後に自分の言いたいことを言い、仲間を作り、そしてその使命に死ねるのだから。もちろんそれ以上に、最後の日々を君と共に過ごせたことが何よりも嬉しい。神も錬金術も関係ない、私達だけが楽しく過ごせる時が、少しでもあっただけで私の人生はとても素晴らしいものになったのだ。残していく君が心配だが、でも君ならきっと大丈夫だ。
 この手記を君に託すのは少し気が引けるが、でも大事に持っていてほしい。君に抱く私の気持ちを、どうか忘れないでほしい。そんな願いは、我儘すぎるだろうか?
 願うならば、もう一度君とあのバラを漬け込んだ蜂蜜酒を飲み交わして、夜遅くまで語り合い、そして笑い合いたかった。ペトリ―ンの丘で、沈みゆく夕陽を共に見ていたかった。君の熱く、大きな手のひらが懐かしい。私よりもずっと逞しくなった君が、いつまでも元気に過ごしてくれるように。そして、君が君の持つ使命を果たす日が来ますように。
 神に祈ります。ヨハンのこれからの幸せな日々と成功を。アーメン。

ヤン・ストシーブラ 


「錬金術師 ヨハン・フラメールの手記」
 ※約3週間分の手記は書かれていない。

1418年6月29日 天気・曇り
今日の成果

出来事
 もはや何日寝ていたのかも分からない。あの日のことを思い出すだけで、全身がヒリつくように痛む。首都から離れ、ターボルまで逃げたのは覚えている。でも、それ以上のことはない。
 あの日。火刑場で彼を救うべく、粉末性の煙幕を作って持っていったのだった。工房で発生したボヤに使われたものだ。火を消し、煙を作るので目くらましができると考えたのだ。あぁ、しかし最後に見た彼の酷い姿……下着姿だけで、足や背中に無数の傷ができていた。それだけでもう頭がおかしくなりそうだった。彼は痣だらけの顔で微笑みながら、俺に手記と十字架を託してくれた。俺に読まれるのが恥ずかしいと笑っていた。俺はこんな時に何も言えず、ただ彼に愛しているということだけしか伝えられなかった。ヤンは、ぎこちなく動く細い手で、最後に俺の手を握ってくれた。
 俺は処刑場でヤンを待った。ヤンがアダム教授達と共に連れられ、処刑場に現れると、何人かの民衆が石やゴミを投げた。怒りではらわたが煮えくり返りそうになるのを堪えながら、俺は機を伺った。ここで暴れて捕まれば、すべてが無駄になる。
 胸のあたりまで薪が積み上げられてもなお、ヤンはただまっすぐ前を見据えていた。罪状が読み上げられると、ヤンは祈りの言葉を口にし、そして叫んだ。
「私が、邪悪な教えを説いていないことは、神が一番よく知っておられる。私が教え、広めた神の言葉の真実とともに、私は喜んで死ぬ」
 火がくべられた。どんどん燃え盛る炎の中でなお、ヤンは叫び続けた。
「神よ、そなた生ける神の御子よ、我に慈悲を」
 あぁ、俺はこの彼の最後の言葉を俺の命が潰えるまで伝え続けよう。俺は処刑場の横でしゃがみ込み、煙幕弾を投げつけた。近衛兵たちが騒ぐ中で、俺はヤンの元へ走り、杭から彼を降ろして、抱えて立ち去った。俺に気づいた隣のアダム教授が助けを求めていた気もする。でも、俺には彼しかいない。
 処刑場からブルタバ川のほとりまで逃げ、橋の下でしばらく身を潜めた。腕の中のヤンは何も言わず、目も開かない。わずかに息はしているが、あまりにもか細い。声をかけたが、彼は祈りの言葉をつぶやいては咳き込み、そして今度は体が激しく震えだした。声を何度かけても彼は何も言わず、やっと俺を見つめたときに、かすかに微笑んだ気がした。不思議なことに、あの教会で見たような表情にも見えた。復活祭でのあの顔……彼の姿……
 ヤンは、俺の腕の中で息を引き取った。それでもなお、彼の顔は清らかで、美しかった。重い雲の合間から光が差し込み、ブルタバ川の水面が光り輝いたのを覚えている。彼の魂が、正しく天国に昇ったであろうことを確信した。俺は彼をそのままマントに包むと、近くを通りがかった馬車を盗んだ。いなくなった受刑者を探していた兵士が気づいて追いかけてきたが、程なくして追っては来なくなった。ふと後ろを見た時、ヴァーツラフ王が見えたような気もしたが、きっと気のせいだろう。
 彼が燃え尽きることなく、遺体を埋葬できることは何よりもの喜びだ。ブリュンに戻ろうかと思ったが、道中で読んだ彼の手記を見て、やめた。彼にとってイヤな思い出のある場所に、彼を埋葬したくない。もっと新しい場所が良い。ようやっとたどり着いたターボルの街の小さな教会で、俺はヤンを埋葬することにした。小高い丘の上にあって、とても眺めが良かったのだ。土の中に、彼が永久にしまい込まれるのが嫌で、俺はヤンの髪の毛を切った。彼と共にいるという、形としての確信がほしかったのだ。理解ある神父だったことも幸いして、俺が最後に棺に収まったヤンの額に口づけすることを許された。離れ離れになるのが嫌で、埋葬が終わってからしばらく、その場から離れられずに、何日も何日も、丘の上で日が昇り、沈んでいくのを見続けた。
 何日目か分からないが、どこかで俺も力尽きたようだ。教会の神父が俺を助け、気がつくと寄宿舎で寝かされていた。無理やり飯を食わされ、ことの経緯を聞かれたが、何も答える気にならなかった。でも、神父は俺を許してくれた。
 こうして、手記にことの顛末を書いたのは神父による助言もあってのことだ。前を向くのにはきっと必要だろうと。偶然にも、優しい神父に出会えて、少し安堵する。ヤンの手記も大事に持っていてくれていた。中身は読んでいないらしいが、神父は
「お辛かったですね」
 とだけ言ってくれた。
俺は、墓場のある丘の近くに朽ち果てた小屋があるのを見つけ、神父に聞いて、そこに住まうことにした。もともと墓守が住んでいたらしいが、病で死んでから誰も寄り付いていないのだという。ターボルの街はそれなりに栄えていた。よそ者の俺がいても、誰も気にしない。物資も豊富で、実験用の器具も売られていた。

1418年6月30日 天気・晴れ
今日の成果
 俺の企みをヤンが許してくれるかは分からないが、俺は諦めきれない。また会うためなら、俺は何でもしたい。

※数ページ落丁

1418年7月5日 天気・晴れ
今日の成果
 順調に育っているが、今までよりも成長が遅い気がする。でも、きっといつか……


1943年3月12日付の共和国新聞の記事
 今までの歴史には無い、不可思議なものが発掘された。ターボルのディーン教会近くの墓地にて、埋葬されたものではない14世紀中期頃と思われるいくつかの人骨が発掘された。人骨は40代後半頃の男性のもので、周りにはガラス容器や乾燥した薬草、鉱石なども見つかっていることから、当時の医者か科学者だと考えられている。しかし、それ以上にこの人骨が奇妙に思われる点はそれだけでなく、その成人男性の遺体の周りには、胎児のような遺骨も複数個発掘されていることにある。胎児と思われる骨はいずれも受精から5ヶ月~7ヶ月程度のものばかりで、専門家によると産院の医者が埋葬を怠っていたという、恐ろしい歴史の裏付けになるかもしれないとのことだ。

2005年11月3日付のターボル通信記事
 第2次世界大戦中に発掘され、その後放置されていた、通称『ターボルの恐ろしき医師』に関して、新たな研究結果が発表されました。
 『ターボルの恐ろしき医師』とは、ターボルのディーン教会近くの墓地跡地で発見された、埋葬されていない成人男性の遺体と、その周りで発掘されたいくつかの胎児の遺骨から、母体から降ろされた胎児を虐殺した医師とされる史跡のことです。しかし、そのような残虐な説を否定する新たな成果が発表されました。
 ベルリン大学の考古学教授アルベルト・シュパーマー氏によると、見つかっている複数の胎児のDNA情報が、ほとんど同一のものであることが判明したとのことです。これは、無作為に母体から降ろされた胎児なのではなく、この成人男性が自らの手で作り出した、人類最古のクローン人間の実験の跡かもしれないということを示しています――


後記
 2016年11月。チェコ共和国・プラハ内のとある古書店にて、私はアダム・ジシュカによるこの書籍を見つけた。実在しているのか、創作なのか、すべてが謎に包まれたこの書籍は2人の男性の親愛について、その本人たちの手記と、それにまつわる第二次世界大戦中の新聞記事が雑多にまとめられたものであった。
 奇妙なことに、このアダム・ジシュカによってまとめられたこの書籍に関する情報は全く残っていない。過去の大戦や、共産主義国統治時代などの検閲で排除されたからかもしれないが、それ以前に、アダム・ジシュカという人物に関する情報も見当たらない。古書店の店主も、見たことのない本だと言っていた。店主の厚意により、私は無事この本を日本まで持ち帰ることができたことを、ここに感謝したい。
 奇妙な話なのだが、翻訳が終わった翌朝、机の上に確かに置いておいたその書籍は消えていた。本棚から何から隅々まで探したが、見つからなかった。
 後に、例の古書店の店主からとある噂話について聞いた。その名も「アダム・ジシュカの霞の本」と言われており、ある時期になると唐突に持ち主のもとから消え去るという不思議な本があるというのだ。今まで、何人かの人間が写本やデータ化などを試みたが、ことごとく失敗しているという。
 さて、伝説通り書籍は私の手元から消えて無くなったが、私の残したこのデータはいつまで残るだろうか。あなた達はいつまで読むことができるだろうか。この、不思議な実験にお付き合いいただいたすべての読者の方に感謝いたします。

追記 2020年2月
 例の古書店に再度連絡をかけたところ、ずっと連絡が途絶えている。2019年の3月に、再度訪問した際には、古書店のあった場所は薬局になっていました。キツネにつままれたような気持ちです……誰か、行く末を知りませんか?


脚注
・助祭:キリスト教カトリックにおける、いわゆる神父(司祭)の補佐役。
・ ポムラツカー:チェコの復活祭(イースター)における風習の一つで、羊などに見立てた女性を男性が柳の枝を編んで作ったカラフルなムチ(ポムラツカー)を持って追いかけて叩くというもの。叩かれた女性は、叩いた男性にお菓子を渡すというルールになっている。
・ホスポダ:いわゆる居酒屋。12世紀後期から、現在のチェコ国内では修道院などを中心にビールの醸造が行われていた。


どこか遠い時系列の14世紀チェコ・プラハで書かれた、2人の男の手記をまとめたもの。
奔放で楽観的な錬金術師と、真面目で自己肯定感の低い聖職者。
激動の時代の中で芽生える2人の親愛関係と、それにまつわる不思議な出来事の物語です。

2020年5月10日公開
<こちらはpixivより引っ越ししてきた作品です>

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