Twitter三題噺「三半規管・爪切り・夕立」

 蒸し暑い空気が、アパートの六畳一間に満ちる。シダの葉のような模様を描く黒カビだらけの壁の向こうから、住人同士の怒鳴り合う声がかすかに聞こえる。時計を見ると、もうすぐ五時だ。かれこれ一時間くらいお隣さんは喧嘩している。
 パチン
 八月のど真ん中に似つかわしくない雪の結晶があしらわれた、いかにも昭和らしいすりガラスの窓。そこに、先程から急に降り始めた雨が当たり続けている。僕は、早くこの時間が終わらないだろうかと、雨の音を聞きながら思うばかりだ。
 パチン
 僕のよそ見に気づいて、そいつは爪を切る。ベッドの縁に座らせた僕の足を掴み、深爪気味の入り組んだその爪を切り落とす。不安じゃないと言えばウソになる。でも、そいつは僕の不安をよそに、爪をどんどん綺麗に切っていく。目眩がしそうだ。
「私に爪を切らせて考え事?」
 そいつの声が僕の鼓膜を揺らし、その目が僕をまっすぐに見つめる。
「ごめんって」
 小さくそう言うと、そいつは鼻で小さく笑って次の爪を切る。
 パチン
「まるで私が責めてるみたいじゃん」
 実際そうだろうが、と言いたい気持ちを飲み込む。そもそも僕の爪を切ると言い出したのはこいつなのに。こんなことになった発端が何だったかは、もはや思い出せない。多分、雨が降ったのに洗濯物を取り込まず昼寝し続けたからか、昼食を食べた皿を僕が当番なのに洗い忘れたからか……まぁ、そんなところだった気がする。こいつが雨に降られながら帰ってくるまでに、僕はやるべきことをすっかりし忘れて眠りこけていたのだ。
 そいつは、大学で気が合ったのをきっかけに、いつの間にか僕のアパートに上がりこんでいた。同居を許可した記憶はないが、もう追い出せる気は起きない。家賃の半分は入れてくれるし、家事なども分担してくれる。どちらかと言えば、助かることのほうが多い。でも、それ以外の時間はそいつの意地悪な遊びに弄ばれることが多い。今みたいに。
「足の爪なんて汚いだろ」
「汚くしてるの?風呂で洗わないとか」
「そんなことないけど」
「じゃあ、いいじゃん」
 パチン
 何が嫌かと言えば、こいつが何を考えてこんなことをしているのか分からないことだ。そのクセ、口はよく回るのでいつも良いように言いくるめられてしまう。地元の瀬戸内にいたときには、こんなヤツ一人もいなかった。そもそも、僕はこいつが男なのか女なのかも分かっていない。一緒に住む前から、体の特徴や声で分かりそうなものだが、分からないのだ。細い腰は女性的なのに、今僕の足を掴む長い指は節ばっていて男らしい。顔はまるで人形や韓流アイドルのように整っており、もはや作りものみたいだ。一度、男か女かそれとなく聞いたことがあるが、うまい具合にはぐらかされて終わっている。一緒に住み始めてからも、裸を見る機会は無かったので、肝心な部分を知らない。別に知りたいとも思わないが、こいつも頑なに僕に身体を見せようとしないような強い意思だけは感じる。
「ねぇ、ペディキュアしていい?」
 やっとこの気まずい時間が終わると思ったのに、こいつはまた変なことを言い出す。
「なんだよ、それ」
「足の爪に塗るマニキュア」
「嫌だよ、そんなの」
 僕が足をどけようとすると、そいつはガッチリと掴んで離そうとしない。
「靴履いちゃえば誰にも見えないよ?」
「サンダル履くことだってあるだろ」
「安心してよ、変な色にしないから」
 こいつの言うこと対して、僕に拒否権はない。マニキュアの瓶が開かれると、ツンと鼻を突く独特の刺激臭が香る。こいつのせいで、どんどん自分のことが書き換えられていくのが嫌なのに、どこかこれを気持ち良いと感じてしまう自分もいる。こいつといると、いつも目眩がしそうだ。
「お前、何がしたいんだよ」
 声をかけると、かすかな笑みを浮かべながらそいつはこちらを見る。
「ねぇ、知ってる?船乗りって、長い期間ずっと船に乗っていると陸に降り立ったときに、しばらくの間真っ直ぐに立っていられないらしいよ」
 何のことか分からずにいると、そいつが続ける。
「三半規管がずっと動き続ける海の揺れに慣れちゃうから、動かない陸で過ごす感覚を忘れてしまうんだって。今までなんてことなかった真っ直ぐ立つ方法が分からなくなるなんて、不思議だよね」
「それが何だよ」
「そんなテーマで塗ってみました」
 足元を見ると、爪が青色だ。複数色の青を使っているのか、複雑な深みのある色合いで、小さな爪が生物すらいないような深海の底に繋がってしまったようだ。
「どう?」
 反対側の足に着手しながら、そいつが聞く。クラクラする。
「分かんない」
「つまんない答え」
 別に僕の感想なんか欲しくないのだ。ただ、僕を困らせて楽しんでいるだけだ。突然思いついた、僕の経験したことのないことをして、僕が困惑し、驚くのをただ楽しんでいる。それの何が面白いのか、僕にはわからない。
すっかり見慣れない姿になった足の爪を見て、ふと故郷の海を思い出した。今日のように急に天気が荒れる日は波が高く、こちらが舵を切っても進みたい方向に進ませてくれない。こいつは、そんな時の海みたいに、いつだって僕を酔わせる。
「雨、やんだみたいだね」
 そいつが窓を開け、身を乗り出して空を見上げる。気づけば、お隣からは先ほどとは違うまた別の激しい声が聞こえ始めていた。
「わぁお、お元気ぃ!」
「やめろ、聞こえるぞ」
 大きな声で茶化すそいつを、立ち上がって制止しに行く。僕が立ち上がったことに気づいたそいつが、口を尖らせて抗議する。
「あ、まだ立たないで!爪乾くのに時間かかるんだから」
「面倒くさいなぁ」
 そいつが僕の肩を掴み、再びベッドの縁に押し戻す。かつての弾力をすっかり失ったマットレスが僕を受け止め、沈み込む。すると、枕元に置いたスマホのアラームが鳴った。表示された通知欄を見て、そういえば今日はゼミの教授に夕方呼び出されていたことに気付く。呼び出されるのはこれで三度目だが、こいつのせいで僕はまだ行けずにいた。
「行かないとだね」
 そいつがニヤリと笑いながら言う。
「爪は?」
「まだダメだってば」
「どうすんだよ?」
 そいつは座った僕の膝の上に頭を預けて横になる。
「いいよね?」
 そいつが僕の目を見て言う。これで何度目だろうか。でも、僕に拒否権はない。スマホの通知を切る。横になったこいつの肩に頬杖をつきながら、先程まで雨が伝っていた窓にまた目をやる。
あぁ、本当に。こいつといるとクラクラする。


お題の提供者:カラザ様(@tamago_karaza
お待たせしてすみません。お題の提供、ありがとうございました。

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