受け入れよう。時代は終わった、いや、変わったのである。

先に言っておくが今日は山ほど失礼な事を書く。
しかも全てに根拠がなく私の推察および妄想である。
万が一羽生善治九段とロジャー・フェデラーのファンの目に留まったらとても不愉快な思いをさせてしまうと思う。
なのでそういう方はこの時点で読み進めるのはやめていただきたい。

私は長年羽生善治九段とロジャー・フェデラーを敬愛している。
二人ともGOAT(the greatest of all time = 史上最高)の話題の最初に名前が上がる人物であり、それ以上に誰からも愛される人格者である。
上記はだれも異論の余地の無い事実である。

問題は、今現在、2021年7月現在はどこにいるのか?
である。

ウィンブルドンが終わり数日が経ったが私の心は晴れない。
ここ数年、怪我、手術、休養、復活を繰り返したロジャー・フェデラーを観ていて覚悟はしていた。
毎年(開催の無かった去年は別として)これがロジャーにとって最後のウィンブルドンかもしれない。
それでも彼は2019年ノバク・ジョコビッチと決勝で死闘を繰り広げるなど、
ウィンブルドンでは復活をしてきた。

今年は違った。
1回戦から大苦戦に陥り(本来のロジャーの1回戦など準備運動で勝つべきなのに!)本来の身体のキレはなく、あの美しいバックハンドも身体が沈み込むことなくネットに掛けた。

そしてベスト8

酷い有様だった。
ロジャー本来の息を呑むようなスーパーショットも随所に見られた。
しかしスーパープレー以外の全てのプレーはグッドプレーですらなく
凡プレー。いや、最低だった。
2セット目の途中からイラつき、自暴自棄のように全てのショットでスーパーショットを狙うような彼本来の優雅さのカケラも見えない雑で投げやりなプレーを繰り返した。
2セットダウンで迎えた3セット目、2ゲームを取られたところで私は観戦をやめた。
明日も仕事があるからではない。
これ以上は辛くて見ていられなかったからである。
これが最後のウィンブルドンかもしれないとよぎった。
もしそうなったら、これだけ長い間、ずっと魅了されてきた選手の最後のプレーを見なかった、という事実を後悔するかもしれない、とも考えた。

それでも、見ていられなかった。
結果彼は1ゲームもとれずに、0-6で3rdセットを落とし、ストレート負けを喫した。
ウィンブルドンベスト8は多くの場合誇るべき成績であることは言うまでもないが彼にとっては、少なくとも私にとってのロジャー・フェデラーにはふさわしくない結果である。が、それ以上に酷いプレーぶりが本当に辛かった。

羽生善治九段。
昨日、棋王戦決勝トーナメント1回戦で新鋭の池永五段に敗れた。
ここ数年、アベレージがどんどん下がっている。
昨年の竜王戦7番勝負。
前人未到空前絶後のタイトル通算100期に向けたチャンス、
であったことは事実かもしれないが、内容的に見ると完敗、実質チャンスと
は言えなかったように思う。
そしてA級の残留をヘッドスライディングで果たす姿も正直に言って見ていて辛い。
今年はすでに竜王戦も負けた。
羽生善治九段を見て育った若手棋士にとって、尊敬と憧れの存在であることは今もこれからも変わらないはずだが、ハッキリ言ってすでに全力で胸を借りにいくとても勝ちを計算できない相手、では無くなっていることは明らかだ。

羽生善治九段もまた、ロジャー・フェデラーと同じく随所にスーパープレーを見せるのである。
しかし、継続しない、またスーパープレー以外のプレーの質が著しく下がり、平均的なプレーが淡白になっているのがはっきり見て取れる。

トップの選手の引き際について考える。

で、これは本当に選手によっても受け取り側にとっても千差万別、
晩節を汚すな、という意見ももちろんある。
その全てが正解でも不正解でもなく、ただの感情である。

IF を人は考える。
私は物心がついた頃からの中日ドラゴンズのファンである。
小学生の頃、圧倒的に夢中になった、今中慎二というエースピッチャーがいた。
見ているだけでも何杯でもご飯が食べれるような美しいフォームから
140キロ台後半のストレートと90キロ台のスローカーブを武器に、圧倒的なピッチングを披露していた。
打たれてもかっこいい投手だった。
彼は長年の酷使が祟ったのか96年を最後に、致命的と言える肩の怪我が原因で長く苦しみ抜いた。
その後何度か1軍のマウンドで投げたこともあったが、全盛期に一番辛酸を舐めてきたであろう東京ドームのジャイアンツファンからも拍手と歓声で迎えられ(これは決してイヤミ的なものではなく今中投手の登板を心から祝福する暖かいものだった)全盛期を知っているものからすると信じられないような130キロ台前半のしかも、打者の前で失速しお辞儀するようストレートを投げ、野球ファンは言葉を失い、30歳で現役を引退した。

大半の日本人が初めて世界のサッカーと触れあうキッカケになった中田英寿はたび重なる故障はもちろんあっただろうが余力を残し彼らしいやり方でやはり30歳で引退した。

IF 今中慎二が怪我をしなかったら。
IF 中田英寿が最後まであがいてプレーを続けたら。
IF 村山聖が健康で思う存分将棋を続けることができたら。

ファンはそうやって勿体無い、惜しい、もっと頑張ればなにかできたんじゃないか?あの怪我さえなかったら、どっかのチームが契約してさえくれれば、と、
IFを身勝手に妄想し、本人の苦労、苦悩を無視して押し付けるのである。

イチロー選手が、引退会見で言った、
「後悔などあろうはずがない」
イチロー選手をデビューからずっと見てきた私のような世代にとって、本当に心を打たれる言葉だった。

どちらかというと、生意気でいけ好かないイメージの孤高の天才バッターであったイチロー選手がメジャーリーグで独自の価値を生み出す姿、日の丸を背負って気合を全面に押し出す姿、チームメートとの軋轢に苦しむ姿、成績が下降し始めてもなお、私のようなファンはたまたま調子が悪いだけで、すぐにまた復活すると無責任に盲信し、必死で抗うも成績が上がらず、出番を減らしても尚、泣き言一つ言わずに現実を真っ向から戦う姿、
その全てを見せつけてそして、見ている全員が泣き、本人のみ晴れ晴れとした笑顔で引退を迎えたイチロー選手の姿は、
日曜の朝ではないが大あっぱれ!という他にないのである。

このストーリーにIFはないのである。
ファンがやってほしいこと以上のことを全てやり、最後の最後まで戦い続け、そして全てが終わりバットを置いたのである。

ロジャー・フェデラー、羽生善治九段、二人とも、もう一度、10年前、20年前のような成績を取り戻すのは正直難しいだろう。
随所に全盛期のようなオンリーワンでありナンバーワンであるスーパープレーを見せつけることはあったとしても、である。

ハッキリ言って、来年の今頃、現役プレイヤーでなかったとしても驚きはない。
凄まじいプレーぶりを知っているファンからするととても辛い場面になんども出くわすこともあるだろう。

しかし、である。
GOATの全盛期を同じ時代で一気一憂し、時に強すぎることで反感すら買い、一瞬のキラメキではなく長年に渡って我々を魅了した選手の最晩年の輝きを、炎がゆっくりと小さくなっていく過程を私は本当に目をつぶって見逃して良いのだろうかと自問自答を続けるのである。
あと何年生きるかわからないが、あと何人、こんな選手に出会えるのか。
(藤井聡太二冠が晩年を迎えるころ生きている自信はある?俺はない。)

やはり、見ているのが辛くても、心がかき乱されても、どんなに歯がゆくとも、
ただ無責任に観戦しているだけの我々の何100倍も現実を背負って、その場に立って踏ん張っている姿を最後の最後まで、
本人が
「後悔などあろうはずがない」と言う時に、我々も胸を張って
「こっちも後悔などあろうはずがない」と言えるように、
目にマッチ棒を挟んででも焼き付けるべきなのだろう。
それが無責任に応援してきた我々の最後の責任なのであろう。

未練がましい私はまだ、心のどっか、ほんの0.1%でもこのGOATなら、
ひょっとしたらもう一度だけ復活してくれるかも知れないと祈りながら。





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