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置き換えられない断面を詠う大切さ

ミルクさんのおっしゃる「事象というカステラの断面」というのは、考えれば考えるほど深い含みを持った言葉であることがわかります。
とても良く似たものになりがちだからこそ「集中して気を付けて切り取りなさい」ということを暗に諭してくれているようで、言葉の選択に今まで以上に神経を使うようになりました。

穂村弘さんの『シンジケート』にある有名な歌です。
・サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

これまたミルクさんが「幼児の自己愛が爆発した、気分が悪くなる癇癪短歌」と一刀両断されていました。「知らんがな」を飛び越して、ムカムカするらしいのですが、この歌にというよりも、この歌をあまりに拡大解釈し過大評価する周りに向けてそう感じていらっしゃるのかもしれません。

短歌の中で対称の置き換えが簡単に出来てしまうことは、「言葉遊びの中から歌を作りました」と白状しているようなものだともおっしゃっていました。
(象のうんこ)は別に他の動物でも何ら構わないし、(北極の氷河の欠片)でも(バオバブの木)でも構わない。ただ落差(実生活に直接影響する価値を見いだせるものと見いだしにくいもの)が演出できれば何だって良いのです。この「演出」がなければ普通だと言ってしまったり、「演出」こそが特別の感性だと言ってしまったりする外野にも問題があるとのご指摘でした。

幼児の自己愛とありましたが、それならば、
・サバンナの象さん聞いて下さいな だるいせつないこわいさみしい
こうやって素直に幼児っぽく詠んだ方がまだ可愛らしいかもしれません。 自分がおもしろおかしく感じるからと言って、サバンナの象のうんこが自分に何の影響も及ぼすことのない遠い存在だというのも、ちょっと大人としては思慮が足りていない気がするのです。無機物ならばまだしも、サバンナでは有機物はあらゆる生き物の糧となり得る大切な物です。ミルクさんの評にもありましたが、自分が少し高い位置から見下ろしている作り方の短歌だから、自分以外の物事の本当の値打ちが測れないまま勢いで詠んでしまうのでしょう。幼児は象のことをうんこも含めて「すごい」と思っているはずです。それに引き替えつまらない大人は「象」も「うんこ」もすごいとは思っていない。そして自分の生活にはさして影響のない、言わば「価値のないの」として愚痴をぶつける対称に引きずりだしているのです。「言葉で幼児性を装って無価値な自分を取り繕う」ことにきっとミルクさんは激昂されているのだと思います。
大人でもしがらみを解いて弱音を吐きたいことはあります。自分を一旦大人の位置から引きずり下ろして、幼い頃にうんこも含めて象が大きいことに素直に驚いた記憶を丁寧に紐解けば、幼い、小さい存在としての自分の心の声が込められたのではないかと思います。物事を斜に見た歌がやたらと多いのは、大半が穂村さんの影響によるものだと思いますが、尖っていようが、突き抜けていようが所詮は言葉遊びをしているだけなのでしょう。

簡単に置き換えや言葉の入れ替えが出来てしまう歌からは、何の悟りも気付きもひらめきも及ぼされません。(突っ込むところはいっぱい湧いてきますが)

「あーこれじゃぁダメだ」と感じたら、もうその歌人の歌は一切読まない方がいいです。とおっしゃるミルクさんのお考えにも納得します。

持てなくなったから装うではなくて、持てなくなったからこそ、もう一度取り戻したい。それには汚れた心を何度も濯いで干さなければならないでしょう。
安易な方へ、簡単な方へ、手軽な方へ行ってはならないというミルクさんの教えの根本は限りなく純粋な魂への希求がもたらした必然のように感じています。

子供達がそれぞれに違った魅力を放つように、曇りのないレンズが見せた世界を詠うことができれば、それは自分だけの唯一無二の魅力ある歌になるのだと信じています。

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/