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旧かな(歴史的仮名遣い)の表記がなぜダメなのか

シリーズ化されそうなダメなのかについての考察第二弾です。

これまたミルクさんの逆鱗に触れそうな課題、「旧かな」について書いてみたいと思います。
先の抜き言葉と同様に、雑誌の投稿歌にマーカーで印をつけてみますと、抜き言葉よりも多くラインが引かれました。実際に使っていらっしゃる方もそれだけ多いということなのでしょうか。

プロの歌人の歌でも旧仮名が炸裂している有名歌はたくさんありますね。

永田和宏さん
訊くことはつひになかつたほんたうに俺でよかつたのか訊けなかつたのだ

河野裕子さん
たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか

田村元さん
サラリーマン向きではないと思ひをりみーんな思ひをり赤い月見て

大松達知さん
かへりみちひとりラーメン食ふことをたのしみとして君とわかれき

紀野恵さん
ゆめにあふひとのまなじりわたくしがゆめよりほかの何であらうか

横山未来子さん
あふむけに運ばれてゆくあかるさの瞼の外に遠き雲あり

米川千嘉子さん
鳩のやうな新人銀行員の来て青葉の新興住宅地に迷ふ

山木礼子さん
触つてはいけないものばかりなのに博物館で会はうだなんて

小池光さん
立食ひのまはりはうどん啜るおと蕎麦すするおとの差異のさぶしさ

奥村晃作さん

ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く

馬場あき子さん
都市はもう混沌として人間はみそらーめんのやうなかなしみ

「口語は軽いので旧仮名を使ってそれを補完する」というお考えの方もあるように、確かに雰囲気はあります、それっぽい雰囲気が。まるで天然色の写真にセピアのフィルターをかけたような効果がもたらされている気がします。しかしミルクさんはそれをしなければ不粋で成立しないような歌ならば、それまでのものと断罪します。雰囲気や抒情のためにわざわざ持ち出して使うなとおっしゃるのです。
そもそも見える人だけを対象にした自分勝手な記述だとも言われています。耳で聞いただけで新旧仮名遣いを区別できる人などいるのでしょうか?区別できないのならば意味が無いとまで突っ込んで異を唱えているのです。
旧仮名については、「表記」は「精神」を包むものだなどと、さも高尚な事柄のように語られる方もいらっしゃいますが、見える人にしか向いていないその「精神」とやらは果たして本当に崇高で健全なものなのでしょうか。
言葉は初期には口伝いでも伝わったことでしょう。
「歌」とつくなら尚更です。
ラジオから流れてきても、ロボットが合成音声で喋っても、良い歌はわかると思います。
けれども視覚の影響力は凄まじいものがあります。なにせ出会いの数秒でその人への好感度を左右してしまうほど、視覚は恐ろしい先入感を連れてくるからです。

頑なに旧仮名にこだわる人達は聞いただけで伝えることのできないものになってしまえば、囲われたそれらしい文学になるとでも思っているのでしょうか。
もしそうならば、ミルクさんの言葉を借りるまでもなく、「愛」が足りないのではないでしょうか。
正々堂々と新仮名で表記できない理由は何なのでしょうか?
抜き言葉の時もそうでしたが、ミルクさんは些細なことでも掛けられたバイアスが無意識に影響を及ぼしてしまうことへの危惧をずっと訴えられています。
これは強烈なサブリミナル効果を及ぼします。
見たものや聞いたことに安易に流されてしまうことが、より深く考えるという行為から自分を遠ざけてしまうのです。文字が絵から出来てきた歴史を知っているのだから、まるで文字を絵に戻すかのように昔の形を引っ張り出して使えば、時間の流れが想起されることは誰にだってわかります。つまり使う人は必ず「狙って」使っています。表向きでは「好み」だとか「趣が」などと言っても、それも含めて「狙い」だと思います。文語表現との兼ね合いで「どうしても・・」という歌がないわけではありませんが、俵万智さんの短歌を読めば「旧仮名」なしでも十分成立することは周知の事実だと思います。

試しに俵万智さんの短歌をいくつか旧仮名表記にかえて書き出して、読んでみることにいたしました。

ムムッムムムム、何だ何だこの違和感は。

なんだかいきなりリアリティが削がれて嘘っぽく聞こえてきました。うまくは言えないのですが、歌からジワジワと作者の「こうしてやろう」という意図が滲んでくるようです。
私の感覚で言わせて頂くと、一旦頭の中で旧仮名→新仮名に変換する時間がどうしても発生してしまい、その僅かな時間に「何でわざわざこんな面倒臭いことをしなければならないの?」という問いが産まれてきてしまいます。せっかく歌の世界を想像しようとしているのに、いきなり「はいっ、なぞなぞ!」と言われたみたいで旧仮名を使った意図にまで強制的に思考を伸ばさなければならないのは、ちょっとした苦痛です。
とにかく、素直に読みたい心に余計なちょっかいを出しているようで、旧仮名でなくてもきちんと理解できて心を動かされる俵さんの歌はさすが本物なのだとあらためて納得することになりました。

時代と共に変遷してゆく言葉は、常に時代の空気や時代の思考を纏ったものになるはずです。平安時代には平安時代の、江戸時代には江戸時代の、明治や大正には明治や大正の空気感が含まれています。空飛ぶ車が出来そうな時代に、わざわざそれを持ち出す意図とは何なのでしょうか、何か格別に優れた特性を持っているのでしょうか、はたまた、絶対に他の文字では置き換えられない特別な意味を内包しているとでもいうのでしょうか。もしそうであるならば視覚の壁をも越える物でなければ納得できないのは、ミルクさんもきっと同じだと思います。

おきまりの短冊と筆が滅多なことでは使われなくなったのはどういう理由からなのでしょうか。きっと「読みづらくて伝わらない」、あるいは「手軽じゃない」からだと思います。そういう意味では活字文化は字の上手い下手とか、字面がもたらす余計なバイアスを取り払ってくれた立役者です。
誰でもがイコールコンディションになる環境が提供されたことは、短歌や俳句にとっては一つの進化への良い道筋であったと思います。

ミルクさんは自分がもし選者の立場なら旧仮名の歌はマイナス評価からのスタートにするか、耳で聞いた歌でしか評価しないとまでおっしゃっていて、相当にこの問題を重要視されていることがわかります。
「(旧仮名を使う)という選択肢の前にやるべき事があるはずだ」というミルクさんの言葉には、抜き言葉に通ずる妙な説得力があってズシンと響いてきます。

プロの歌人達も含めて多くの人がなぜ旧仮名を使うのか、その理由を聞いてみたくなりました。
果たしてその答えはミルクさんのようにズシンと心に響く重さを持っているものなのでしょうか。それとも私でも想像できてしまうような、中身のない体裁を繕う言葉なのでしょうか。

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/