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雰囲気だけの言葉が雰囲気をぶち壊す

そう言われて見るとやたらと目にする短縮形の言葉たち。
ミルクさんは短縮形の言葉や抜き言葉には超絶厳しいので、ここで安易に語ることすら気を付けなければなりません。これはあくまで私の想像ですが、タイトルに書いたとおりに雰囲気だけで安易にそういった言葉を使ってしまうと、逆に雰囲気が失われてしまうのではないかということだと思っています。
単なる音合わせに留まらないで、もっともっと言葉の可能性を追求することの方が短歌を作る上で重要だということなのでしょう。私も含め初心者はやたらとルールや取り決めを守ろうとしてすぐに手近にある言葉を使ってしまいがちですが、仮に音が合わなくても歌の持つテーマに沿う言葉が見つけられるように試行錯誤するべきだということなのです。

そうなると字数や音数という規則にも増して、描かれた(詠われた)テーマというものが大切になってくると思いました。テーマに沿って意味を成す言葉でなければ選んだり使ったりするべきではないということを再三おっしゃられていたのですが、いまいち私には納得が出来ていませんでした。

※ちなみに最も嫌いな短縮形の言葉は「終バス」だそうですが、(私などは逆に終バスということばがガチッとはまるような歌もあるのではないか・・・・などと思っていました。)

穂村弘さんの代表作「シンジケート」(1990)の中の有名な一首、

終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて

などがその代表作に挙げられると思うのですが、以前にこっそりミルクさんに尋ねたところ、「ただの中学生の妄想」と一蹴されました。
しかも「終バス」という言葉がリアリティを打ち消してメルヘンに落ちぶれさせる犯人だというのです。
普段から日常的に使ったりしない言葉なら尚更で、このショートストーリーの為に持ってきて使いました感が出てしまっているとのことでした。

そんなミルクさんはというと、「おつかれさま」という題で作られた歌があります。

・回送の方向幕が月に向く最終バスと話すカナブン

てっきり人が眠っているのかと思っていたらまさかのカナブン。意表を突かれました。
これまた仕掛け満載なのだろうと何度も読んでみました。
「月に向く」なんてメルヘンチック、と思ったら「話すカナブン」で何か窓ガラスにコツコツとぶつかる音まで聞こえてきそうな臨場感が演出されています。
方向幕は行き先を表示するためのものだそうですが、まるで昼間の運行から夜間の運行へと行き先が変わることを示すかのように月に向く最終バス、せっかちな夜行性のお客さんであるカナブンが早速やってきて話しかけているというストーリーでしょうか。
こちらの方がよほどメルヘンチックな物語という印象ですが、何かが大きく違っています。しかしこれが延々と理解出来ずにおりました。
またまた失礼を承知でミルクさんに尋ねてみますと、
作者(見て作っている人)の位置がその違和感の正体でしょう。と言われました。
穂村さんの歌では作者は眠る二人の内の一人かもしれないし、二人以外の人かもしれない、そしてその人がバスの外にはいないことは確かである。(外からは最終バスとはわからない)幽霊のように宙に浮かんで二人を見ているような存在であるということにもできるが、この曖昧さが歌の接地感(地に足がついている感)を阻害してしまっているということでした。
一方ミルクさんの歌の方はというと、作者はバスの中でも外でも成立しています。多分、「回送」という一言が利いていて、人が居なくなった無機質なバスという物体が月灯りの下で静かに佇んでいるという景色に一役買っているのでしょう。よくよく読み返してみると、「回送」「方向幕」「月に向く」「最終バス」「カナブン」という五つの言葉が非常によく練られた上で選ばれていることに気付きます。
理解する上での方向性というか、ベクトルが整っている感じがします。このことが最終的に接地感やリアリティの厚みに繋がっているのではないかと思いました。

雰囲気、それはとても大切な要素かもしれません。けれども安直にそれを装う言葉は避けなければならないということを学びました。相変わらず短歌というものはとても難しく厳しい道程であると身に沁みています。

この無機質に思える歌からもほんの少し優しい愛情を感じます。「おつかれさま」というタイトルのせいでしょうか。人の温度が宿っているようです。

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/