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曇りなき心の鏡に映るもの

歌は人の心の中の景色であると同時に、人そのものを表す鏡でもあると思います。
1gを計測する為にはそれ以上の精度が求められるように、歌にしようと思えば、心の情景を細かく感じられる精度が必要になるでしょう。
もちろん、視覚や聴覚だけではなく味覚や触覚、気配に至るまですべての感覚を鍛えなければ、本当に大切な事柄は見逃されてしまうかもしれません。

タイトルの歌にあるように、ミルクさんは井戸に移った自分の顔ばかりを見ているのではなく、水を汲み上げて花を映してみようと言われます。
自分と自分に纏わりつく事ばかりを見て歌っていると大事な鏡が曇ってしまって、大切なことや貴重な瞬間を見逃してしまうのだという気付きなのです。

そして、「言葉には遠い」と言われます。
こんなに様々な言葉が溢れているのに、未だ心の訴えかけるものに遠く及んでいないと感じているのです。それは言わずもがな、先人が短歌に「私性」などというそれらしい偶像を持ち込んでしまったからだと思います。俳句の季語のように「私性」が際立つ歌がより短歌らしい歌なのだという方向へ、皆が何も考えずに進んで行ってしまったからに他なりません。

ミルクさんの歌を読んだとき、私は井戸に映る自分の姿に愕然としました。
掬った水に周りの景色が目映く映ったとき、歌を詠むということの本当の役割を知りました。自分一人の出来事など、なんてちっぽけなくだらないことなのだろうと恥ずかしくもなりました。
ミルクさんの言葉を借りれば、「詠むことが叶わないものに変わって詠む」ことを人は託されているのだと思います。
だから言葉を蔑ろにはできないのです。それがミルクさんの厳しさの原点のような気がします。
日記のような短歌もいいでしょう。しかしそれは基本的に自分の手帳の中に留めておくべきものです。行き過ぎたナルシズムにどれだけの人が嫌悪を抱かずについてきてくれるのでしょうか。

そんなくそ真面目に語られても・・・と、手軽に短歌を楽しみたい輩は笑っているでしょうか。
笑われたとしても私はミルクさんの教えに習い、厳しくてもこの道を前に向いて進んで行きたいと思っています。
その先に素晴らしい景色があると知ってしまったからには、もう追わずにはいられません。

たとえ今の価値観が全く異なっていたとしても、気にはなりません。
残るべきものは残って、残るべきではないものは残らない。

皆さんはいったいどれだけの短歌を暗唱できるというのでしょうか。

社会がたった一つの出来事で一変したことを身に沁みてわかっていますよね?今の王道が果たしていつまで続くのか、見届けようではありませんか。


ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/

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