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感性を着飾るとなぜダメな歌ばかりになるのか

 ミルクさんの起承転結という記事を読んでいる時に、「事象のカステラの断面」というミルクさんの考える短歌の概念について思ったことがあります。
断面とおっしゃるくらいだから、短歌というものはまるで一コマのマンガのように著されるものなのではないのでしょうか。だとすればリアリティという名の重みを一コマに持たせることが簡単ではないことがわかるような気がします。更にあり得ない、ありもしない比喩や落差や突飛な発想を持ち込むことも、リアリティを阻害することはあっても納得させることは難しいのではないかとも考えられます。

「この味がいいねと君が言ったから7月6日はサラダ記念日」 俵万智 サラダ記念日

この歌がなぜ素晴らしい歌なのか、心に染み込むように読まれるのか、それは「いいね」という僅か三文字に込められたリアリティ(重み)にあると思っています。

解りやすく「いいね」の三文字を伏せ字にして、いろいろな言葉を当てはめてみましょう。

A・「この味が 宇宙 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
B・「この味が 銀河 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
C・「この味が 運命 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
D・「この味が 天国 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
E・「この味が 永遠 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
F・「この味が 至極 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
G・「この味が 究極 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
H・「この味が 絶対 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
I・「この味が ベスト と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
J・「この味が カオス と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
K・「この味が レベチ と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
L・「この味が やばい と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
M・「この味が うまい と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
N・「この味が 最高 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
O・「この味が 一流 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
P・「この味が 三つ星 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
Q・「この味が マスト と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
R・「この味が 秘伝 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
S・「この味が そそる と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
T・「この味が オシャレ と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
U・「この味が 高級 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
V・「この味が 理想 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
W・「この味が 死にそう と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
X・「この味が わからない と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
Y・「この味が 1位 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」
Z・「この味が 最後 と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」

音数が合わないものもありますが、ちょっと思いつく限りで書き出してみました。

落差や飛躍、まるで関係や繋がりを無視した言葉がいかに無力で無意味でとって付けたような張りぼて感の中に埋没しているかがよく解りますね。

まだ多くの記念日など持たない二人の何気ない日常。サラダの味の儚い記憶もそっと丁寧に重ねているような、ちょっとした相手の機微にも気が付く距離感を保っているでしょうか。サラダの新しい味は、グッジョブという期待半分、やり過ごされること半分だったのかもしれません。
少し変わったサラダの味に「いいね」という君。そしてその言葉を静かに受け止める作者。
まだ十二分に相手の嗜好が理解できてはいない関係性の中で、不意に芽生える二人だけの価値観にちょっと特別な感情を持つ作者の心情が素直に表現されています。

もう少し親密ならば、「いいね」以下の言葉や感情になるかもしれないし、スルーしていたかもしれません。逆にもう少しドライでスマートな関係ならば、敢えて「美味しい」、「旨いね」と普通の褒め言葉を使ったかもしれません。

続くかもしれないし、途切れるかもしれない。

「いいね」という言葉の穏やかな音に似つかわしくない、決して真っ正面には位置しない二人の微妙な立ち位置がそこから汲み取れます。
優しくありたいけれど、優しすぎればいつか相手を傷つけてしまうという配慮が透けて見えると言っても過言ではないでしょう。

そのような儚さを秘めた関係だからこそ、作者は生きている限り訪れる「7月6日」に噛みしめるような歓びを留めておきたかったのかもしれません。日々の生活という現実の時間の流れの中で吹き飛ばされてしまいそうなかけがえのない微笑みの瞬間を31音という永遠の中に閉じ込めたのです。

圧倒的なリアリティを生む「いいね」という言葉、二人だけの秘密、いや仮に一人になったとしても永遠に抱き続けることができる宝物のような「サラダ記念日」という造語、「この味」「7月6日」でのフォーカス、「君が言ったから」で浮かび上がる人物像と関係性、とても緻密で繊細に構成されています。
初めて読んだ時、誰しもが「こんなに簡単なものでいいなら、私でも作れるんじゃないか」と愚かな勘違いを経験したことでしょう。
実際には、多くのプロの歌人達も誰一人この歌を凌駕するような歌は詠めていません。
未だこの間合い、この感受性の正体に気付かず、自分語りと勝手な拡大解釈を繰りかえすばかりで、短歌めいたものの堂堂巡りを繰り返しています。

「サラダ記念日」を繰り返し読めば、ミルクさんの怒りや指摘の的確さがズシンズシンと心に響きます。と同時に、感性の石ころを転がしてゴツゴツを無くし、撫でて真球に近づけることでほんの小さな突起にも気付くことができるようにしなければならないという歌人の心構えのようなものが身についてゆくのだと感じます。

せっかくの瑞々しい感性に派手な化粧を施し、突飛な服を着せ、ランウェイを歩いているつもりの勘違い歌人やその短歌たちに惑わされないで、丁寧に磨くことを続けなければあっという間に錆び付いてしまうことを忘れてはなりません。ふうっと吐いた息の温度をいつでも感じることができる心持ちで作歌に望んでいれば、大切な瞬間を見過ごしてしまうことはないのだと思います。

ミルクさんはおっしゃいます。
「サラダ記念日」は見事な追体験ツアーで、誰もが「俵万智」という人を疑似体験できる魔法のような歌集なのです。それは決して「既視感」や「私にもあった経験」などという薄っぺらなものではなく、言葉の達人がものすごい早業で一瞬を切り出したさまを脳内に再生するという、テーマパークもびっくりのアトラクションだと言ってもいいでしょう。
そしてあまりのさりげなさに、多くの勘違い歌人を生み出す黒魔術まで装備しています。
間違いなく、短歌を志す人が目指すべき山です。でも低山です。高さが問題なのではなく、一歩ごとの景色の違いを踏み締めてゆっくり登る山なのでしょう。折々の儚い結晶を瑞々しい言葉で閉じ込めたからこそ、胸に抱ける歌が幾つも生まれたのだと思います。
 万智さんの感性はほぼすっぴんのまま31音の中に潜んでいるけれど、他の多くの歌人達はその感性すらも飾り立てようとしています。短歌は断面を見せるもの、切った刃物を見せるものではありません。いかにも「特別な刃物で切りました」というような歌人ばかりが増殖する中で、益々「サラダ記念日」の存在が重要だと気付かされるのです。

4/33 吐き出した歌は心を温める息に近いな 息だといいな

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/