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わたしの音楽年表:biography of music その1

こんにちは、AKKOです。
アカウントでの自己紹介で、アマチュア打楽器奏者と書いているので、今回はわたしの音楽にまつわることを書いていきたいと思います。

普段の主な活動などについてはおいおい詳しく書くとして、今回は年表形式で、わたしの音楽の歴史?経歴?そんな大それたことは何ひとつありませんが、書いてみようと思います。
実はこうして自分の活動というか、いつからどんなことを、音楽についてやっているかをまとめるのは、はじめてのことです。

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■誕生~小学校
1981年
:生まれる
1986年:幼稚園入園。
 在園中、お遊戯会で打楽器を演奏したような記憶がほんのり。

1989年:ピアノ教室に通い始める。
ピアノ調律師の方がご自宅を開放しており、講師がそこにきてレッスンする教室。毎週土曜日、自転車で片道20~30分、結構な坂道を登って通ってた。

1991年:小学校の吹奏楽部に入部。
当初はクラリネットかフルートがやりたかったのだが、顧問の先生に「あなたは打楽器」と指名され、打楽器に。

同年夏、運動会で披露するドリル演奏でトリオを担当。人生初の肩こりを経験する。入学式や音楽集会など、演奏機会には恵まれていた。

1992年:ライオンズクラブでの演奏がこの年、日中姉妹友好都市の記念の年であったため、会場がいつもより大きな市民会館大ホール(現日本特殊陶業市民会館フォレストホール)だった。「マスク」でシロフォンを担当。

1993年:入学式で新入生の前で校歌を歌うこととなる。当日本来歌う予定だった同級生が欠席したため、スネアなしでOKとなり、代役を務めることに。

パートリーダーに昇格。スネアを主に担当する。

名古屋マーチングフェスティバルに合同バンドで参加。前の団体との入れ替えのリハ中、どうも演奏が噛み合わず(前の団体が演奏し、それに合わせて入場)、困った先生がわたしの前に現れ、「やれるよね?」の一言で、入場演奏をやることに。まさかのレインボーホール(現日本ガイシホール)でソロを任される。リハ2回は失敗し、本番のみ成功という、小6にして冷や冷やする本番を体験。翌日は名古屋まつりのパレードにて演奏。両日ともにグロッケンを担当。

わたしの吹奏楽の基礎は小学校の部活で出来ているといっても過言ではありません。顧問の先生は、私たちを小学生相手というより、小さな演奏者として、時に厳しく、しっかりとした指導をしてくださいました。
チューニング一つとっても妥協はしませんでしたし、管楽器に対して、打楽器がいかに大切な存在かも教えてくれました。
また、楽器の手入れを行う日を毎週決めており、楽器を大切にし、次の代につなぐことも教えてくださいました。
木管楽器が吹けなかった悔しさをリコーダーで昇華していたため、音楽の教科書に掲載されていた短い楽譜をすべてリコーダーで吹きまくる、ということをしていました。そのままで吹けないときは移調して、運指標の替え指は全部使えるようになり、音域すべての音を出せるようにまで。

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■中学校
1994年
:中学校入学。音楽部へ入部。
新設校のため楽器がほぼなく、顧問も名ばかり。部員で自主運営をしているような状態。音楽部という名の通り、吹奏楽だけでなく、歌うこともあった。ピアノが弾ける人がいたのに、なぜかエレクトーン伴奏したことも。

1996年:音楽の臨時教員(産休代理)の提案で有志合唱部を結成、CBC合唱コンクールに出場する。
この先生は主にピアノ譜の編曲をされており、いろんな話をしてくれた。WINDOM HILLのCDくれたり、すごくかわいがってもらった。公募ガイドの存在を教えてくれ、わたしの小説読んでくれたり。

この年を最後にピアノ教室をやめる。
ピアノはすきだったけれど、先生が苦手なこと、手が小さく弾けない曲もあったり、高校入学を理由に。聴音ができるようになったのは利点ではある。

もともと入学できるはずの中学が吹奏楽強豪校であったのに、学生数が多く、分校的扱いで出来たのが母校。そのため部活も何も整備されておらず、管楽器は自前、楽譜も自分たちで購入、練習もほぼ自主運営という状態でした。小学校での経験がなければどうにもできなかったと思います。音楽室は校舎の4階にあって眺めがよく、練習がきちんとできなくても、音楽室に行くのはすきでした。

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■高校時代
1997年
:高校入学。吹奏楽部に入る。
こちらも楽器がほぼない、弱小部。音楽室を音楽系の部活で回しており、化学室で練習する日も。顧問は2人いたけど、毛色の違う先生でくせが強かった。ここでドラムセットと出会う。というか、ドラムできないとやれる楽器がないくらい、楽器がないし、部員もいなかった。

同年夏、当時住んでたマンションの上の階に住んでた中学の後輩に連れられて地元の楽団(名古屋緑吹奏楽団)に見学に行き、そのまま入団する。

この年スーパーカーで出会い、以後何度もライブに足を運ぶ。

1998年:同じクラスの友だちと、文化祭に有志バンドで出ようとなる。
こっちはギターがいない、あっちはドラムがいないという、1つのバンドに見えて2つあるというメンバー構成のバンド、Milky&Caffeine(女子4+男子3)を結成。オーディション用音源作るため、何度か一緒にスタジオに入る。残念ながらオーディションは落ちてしまう。

たぶんこの年に、生まれて初めてスネアを購入。
MAPEXのSTEELで、7,777円で売られていたもの。
最初はPearlから出ていたTOSHI NAGAIモデルを買おうとか思っていたのに…

(この年だったかな、同じクラスの女子4人でバンド結成。名前はHappy-Go-Lucky。学内でバンドしている子に声かけてもらい一度だけライブ出た)

1999年:バンドを結成する。
中学の後輩(楽団に入るきっかけ作ったこ)と一緒に楽器屋にメン募し、連絡くれた人とバンドを結成。バンド名はSilly Billy。
当初ギターは2人いたけど、顔合わせ日にいなくなり、当初はG,B,Drの3人で、途中Bの同級生をVoに迎えて4人に。
スーパーカーのコピーをやる予定で組んだのに一度もやらず、てきとうセッションしたり、The Brilliant Greenの曲やYENTOWNBANDのMy Wayやったりしていた。わたしの大学入学後自然消滅してしまう。

また、部活は12月まできっちりとやっていた。

高校の部活も中学同様弱小で、コンクールにも出たことなく。
楽団に入ったのは、いろいろ教えてもらえるかもしれないという淡い期待だったのだけど、打楽器のみなさん社会人であまり練習に来られず、ひとりのことも多かったです。また、ドラムを始めたことでグリップをマッチドにしたらロールができなくなってしまい、わたしのスネアきらいが発症。
この頃ラジオを毎日聞いていて、特にNHK-FMミュージックスクエアは、曲をフルで流してくれることもあり、MDに録音しつつ、楽しみにしていました。おかげでたくさんのアーティストを知れ、CD買ったり、ライブ行ったり。音楽雑誌もいろいろ買ってました。洋楽も少しだけ聴いていたけど、主にすきなアーティストのおすすめや、友だちからCD貸してもらう感じでした。吹奏楽は、演奏活動としてはやるけれど、普段全く聴かないスタイル。

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■大学時代
2000年:大学入学。
昼夜開講制の夜間主であったため楽団の通常練習は参加できず、長期休みのみ参加、イベントは当日楽譜をもらい初見演奏というのを繰り返す。
また、数か月だけ軽音部に所属。一度だけ学内ライブに出た。

2002年:打楽器アンサンブルの演奏会(APG2002)にはじめて参加。
楽団のエキストラに来てくれた人がここの代表で、同じ年ということもあり。そそのかされて参加したのだが、打楽器の楽しさにようやく目覚める。

2003年:APG2003に参加。同年APG解散。

2005年:人生初のエキストラとして演奏会に乗る。
同じ楽団の団員でもある(当時)人が立ち上げに関わっていた楽団の創団記念演奏会に参加。
本番の前日がスーパーカー解散ライブで、東京日帰り夜行バスで帰名し、そのまま会場入りして、リハ・本番を迎えた。

たぶんこの年、パーカッションアンサンブルだだっこ結成。
APG解散後、打楽器アンサンブルがどうしてもやりたくて、当時のメンバーの一部や外部に募集をかけ、グループ結成を模索。いくつか依頼演奏を受けたりもしていた。

大学が夜間主であったこともあり、練習に参加できずに本番を迎えることが多く、「練習」というものを深く考えない時期でありました。練習って、何をどうしたらよいのか、わからないまま来てしまった感じです。
また、打楽器アンサンブルに出会い、半ば惰性で続けてきた打楽器がようやく面白くなってきたのです。APGでの活動では、養護学校での特別授業を経験したことが一番の思い出。音楽を純粋に楽しんでくれる姿にとても感動したのを覚えています。

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書き始めたら思いのほか長くなってきたので、今回はここまで。
続き、社会人以降については、いうことで書きたいと思います。

おしまい

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