原始のシーラカンスは食パンに足を生やす
言葉とは、ときに人を縛る鎖ともなれば、人を導く指針ともなる。
現代を生きるわれわれが、その人生において最も多く目にする言葉のひとつとして、次のようなものがある。「開封後は冷暗所に保管してください」。
冷暗所。それはこの蒸し暑い梅雨時において、その存在すら定かならぬ絶滅危惧の空間。たとえるなら砂漠のオアシス、琵琶湖のシーラカンス、都心部で出会う人のやさしさ。
さて、言葉とはときに明示されることのないものでもある。冷暗所で保管すべきことを、パッケージ側面下部欄外がいつも丁寧に教えてくれるとはかぎらない。けれどたいていの場合、そこには「冷暗所」が仄めかされている。それこそ都会ですれ違う人間のように、当たり障りなく、他人行儀に。
食パンを買った。ちょっといいやつ。
いつも朝は急いで菓子パンや惣菜パンを食べるものだから、脂質と糖質と価格が内臓の裏や骨の隙間にもべっとりともたれかかってくるのがわかる。いや、さすがにわからない。
そこでシンプルに5枚切りした食パンを、毎日一枚ずつ食べればみごとに月火水木金曜と、食パンのロイヤルストレートフラッシュが揃うという寸法だ。(5カードの方が例えとしてふさわしいが、それだとジョーカーがアリになるなとか、そもそも語感として微妙だなとか、愛を伝えたいだとか考えてしまうし沈むソファーもないのでやめた)
しかしなんやかんやで、何があったのか今となっては全く覚えていないのだが、金曜になって2枚もパンが余っている。どうして?
ともかく、戸棚の中という、思いつく限りの冷?暗?所?に、袋に入れてピンチで留めた食パンを置いていた。
それを開けて一口食べると…ちょっと奥行きのある薫味のふくよかさ…これは…もしや…カビだ!
やはり琵琶湖にシーラカンスはおらず、都会の人間は誰も無口で、海鳴りだけを聞いていて、弊アパートに冷暗所はなかった。
人類が農耕生活を始めて何年だろうか?私はいまだに、未来に備えて何かをストックしておくような思考に慣れない。嗚呼。
きのうは珍しく肉を焼いて、勢い余ってフライパンを焦がしてダメにし、だからきょうはズッキーニ、君を焼いてあげられない。
チンした肉の残りを噛み締める夜だ。
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