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探しているもの

“居場所なんて最初からなかった”(「この世界の片隅」により)

居場所。私がずっと探し続けてきたもの。
小学生の時のトラウマは私を永遠に居場所を探す旅に出させた。

小学5.6年の時、家にも学校にも「居場所」と断言できるものがなかった。何か熱中できる好きなことがあれば、それに集中してそこが居場所になるくらい、単純な頭の構造なのに、その重要な“好きなこと”が小学校高学年の時はなかった。それゆえ、学校では1人で過ごし、家では勉強のことばかり話をしていた記憶しかなく、どこかずっと寂しかった。

中学に上がると好きなこともでき熱中できたが、大学に上がるとコロナで私の拠り所であるその好きだったことさえも奪われてしまった。

ずっと落ち着かず、「私を私として認めてくれる場所」を無意識に探していた。本を読み、活字の中で旅をして、現実に旅に出られるようになったら、少し大胆な、そして頻繁に旅に出た。他にも、サークルやボランティア、アルバイトなど大学生ならやるようなことを全部してみた。結果、それは良かったことではあったが、ふと、何をそこまで私を動かしてるのだろう、と思った。

その時、きっと私は自分が自分らしくいられる場所をずっと探していたのかな、と思った。それが案外しっくりきて腑に落ちた。

高校生までは勉強をしていれば良かったが、大学生になると自由な時間もできて、その自由な時間が私をにわかに恐れさせた。何も予定がない日、家にいると落ち着かず、孤独のトラウマが押し寄せる。だから、ほとんど毎日予定を作り家を出て、何かをする。孤独が怖いから、大学以外にボランティアやサークルなど色々手を出して予定を埋め続けた。もちろん、そんな生活をしていると体力がない私は、それで体を何度も壊した。周りからは頑張りすぎ、動きすぎ、限界を超えてるんだ、って言われた。私だってそう思う。でも、忙しくして限界を超えて体を壊しても、孤独の恐怖よりはマシだと思っていたし、よくやってるって自分で自分を認めることもできた。

孤独から逃げ続けて、忙しくしたからこそ得られたものもたくさんある。私を私として認めてくれる人や、場所にも出会うことが出来た。活動自体に参加したり挑戦したりすることに楽しみを見出すことも出来た。何より、自分で自分を認められるようになったのが大きな進歩だった。

今は、拠り所となる人や場所はたくさんある。でも、それでも、ふとした時に押し寄せる恐怖や心の奥底に沈めたトラウマが現れることを恐れて、気が紛れる何か新しいことに挑戦する。この生き方で私はいいと思っている。もしかしたら、無理があるかもしれない。いつか何か起こるかもしれない。でも、ふとした時に現れる恐怖に打ち勝つためには、それ以上の自信と経験が必要な気もする。

他人は、色々と挑戦する私を「えらい」と言う。でも、私は「えらい」なんて思っていなくて、できることなら、家でゴロゴロ余白のある生活をしてみたい。

幼い頃の辛い記憶は、思ったより根深く、良くも悪くもその後の人生さえも変える。

私は小学校の先生になってみたかったが、ならなかった。その本当の理由は、人格形成に深く関わることになる先生業への「恐れ」。自分自身が落ち着かず探し続けている居場所を作ってやれる自信がなかった。

“誰でも、この世界でそうそう居場所はのうなりゃせんのよ”(「この世界の片隅に」より)

この言葉を自分のものにできるにはどれくらいかかるかな。

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