また、少しずつ歯車がかみあって、回ってきた…気がする。 6月:徐々に暗闇の中に入っていく 7.8月:完全に抑うつ状態。不安定で、体も心も調子が狂って、どうしたらいいのかも分からないし、どうにかしたいという気力すら湧かなかった。ここまで気力が湧かないのも初めてだし、毎日毎日死にたい、どうやったら死ねるか、とか考えていて。本来の私なんて、私だって分からないけど、少なくとも基本的に楽観的でポジティブだと思っていたから、こんな状況でどう対応したらいいかの方法なんて持ち合わせていなか
8月 私が私でなくなった “壊れた” 初めて壊れた 心が折れる音がした 何か大きな特別な出来事があった訳でもない どれもこれも耐えられるくらいのものだった なのに 小さな小さな負担が少しずつ心にのしかかってて 全然それに気づかなくて 気づかなくて、というより多分無視してて でも、今まで平気だったし大丈夫だって 思ってたけど とどめを刺すように理不尽なことが起きて 私は壊れた 最後のとどめは笑い話になるような出来事 なのに ダメだった 初めて心が折れる音を聞いた そこか
関係人口って多様でそれぞれ関わり方が違う。どんな関わり方でも正解。そんな中で私が今後どう関わっていきたいか、その理想を書いてみようと思う。 私は沖縄という地で関係人口として関わり続けようと思っている。 地域と関係人口という関わり方があることは大学の授業で知った。最初は「ふ〜ん」くらいにしか思ってなかったけど、いざ実際の事例など聞いてるとどんどん「これ、いいかも!やってみたい!」と思い始めた。なぜかって。私には大好きな地元があり、離れたくはないけど、沖縄のような時間も食も波長
どんな大人になりたい? ふと、こんなことを聞かれた。 どんな大人…か。考えてそうで考えたことがあまりなかったかもしれない。 私は良くも悪くも、表裏がない、と自分では思っている。表裏つくって生活する方が大変だったから、いつからか辞めた。第一印象に合わせて行動とか言動を変えたこともあったけど、なんか自分らしくなくて。ずっと表なのか、ずっと裏なのかは別として、どちらかに統一することで、人との距離が近くなった気もする。特に、子どもと接するようになってからは、全面に自分を出してくる
“居場所なんて最初からなかった”(「この世界の片隅」により) 居場所。私がずっと探し続けてきたもの。 小学生の時のトラウマは私を永遠に居場所を探す旅に出させた。 小学5.6年の時、家にも学校にも「居場所」と断言できるものがなかった。何か熱中できる好きなことがあれば、それに集中してそこが居場所になるくらい、単純な頭の構造なのに、その重要な“好きなこと”が小学校高学年の時はなかった。それゆえ、学校では1人で過ごし、家では勉強のことばかり話をしていた記憶しかなく、どこかずっと寂
「不登校」 私はこの言葉に少し敏感。苦手なテーマでもある。 世の中は不登校児への対応だの、不登校の子を持つ親向けの講演だの、不登校支援がありふれている。昔はなかった支援が増えていることには大賛成。でも、むずむずする想いも少なからずある。 なぜか。それは、私が不登校になり損なったから。 小学校5.6年生の頃、私はクラスとも先生とも全く上手くいっていなかった。自分のやることなすこと誰も聞いてくれない、先生なら聞いてくれるだろうと思ってたけど、聞いてくれやしない。それどころか、
本当はもっとできるはずなのに 本当はもっと考えなきゃいけないのに 本当はもっと分かってほしいのに 本当は傷つきやすいのに 本当は根はネガティブなのに… 私はよく能天気だと言われる。自分でもその自覚がないわけでもないのだが、ふとした時にもう1人の私はいつも、私のことをけなす。例えば、大したミスでなくとも、ミスをした時にもう1人の私はなんでこんなのもろくに出来ないのと言い、心のどこかで本当はもっとできるはずなのに、と思う。上司から仕事を頼まれた時。きっと自分でもなんとかできたか
スマホのスクリーンタイムの週平均は4時間弱。 LINEやインスタも1日1時間程度。 LINEでのやり取りよりも手紙でのやり取りの方が好き。 マップは位置情報を切っている。 動画より読書。 私は半分アナログ人間だ。アナログの、人の温もりを感じられる形態が大好きなのだ。それ以外にも、少しくらい手間のかかる、時間のかかることも、別に時間に追われていないのなら、面倒と言われることを率先してやる傾向がある。 ついこの前も温もりを感じた。それは大学の卒業式の日。私は着付けがあったため
人とのつながりを感じた時、それは偶然ではなくて必然だと思う。
1ヶ月沖縄にプチ移住してみた。 1人で沖縄にのりこんだ。ふるさとワーホリという制度を使って。1人で生活したことも、1人で飛行機に乗ったことも、料理もろくにしたことも、車もほとんど運転していなかった私が、これら全部のことが求められる沖縄生活がなぜできると思ったのか。 正直生活していくことに対して、そこまで心配していなかった。これが謎の自信ってやつだと思う。もちろん、親からは猛反対を受け、沖縄に行く直前まで「何考えてんのか。バカじゃないの。そんな1人で生活もしたことないのに、何
あけましておめでとうございます 2023年は本当に気持ちの浮き沈みが激しく、自分の弱さを感じながらも、結果を残すところは残せて「やることはやる」を体現できたのかな、という年だった。だからこそ、充実した1年だと感じられていたのかもしれない。 だかしかし!大晦日にまさか高熱を出すとは…!4年間続けてきた大好きなバ先に迷惑をかけたくない一心で、ロングでシフトを出たりして満足をしていたはずなのに、最後の最後に大コケ。大迷惑をおかけして、後味はいまいちになってしまった…(2023年1
心が狭くなったなと感じる。 前は電車で隣に座っている人が寝て寄りかかってきても、''疲れてるんだなぁお疲れ様です''と、なるべく許容してきた。 だけど、最近それが出来なくなった どうしても、知らない人が寄りかかってくると大きな心で許容する前に、''え…。嫌だ…''と感じてしまうことが増えた。自分だってしてしまうことあるのに。 簡単に人を頼ってはいけない これは親によく言われること 分かっている。分かっているけど、私は人と関わり、人を知り、頼り頼られつの関係を築いてみたい。
旅行先の選び方は人それぞれだと思う。 私の場合は直感。唯一の条件と言えば行ったことないところくらい。それも条件と言うよりできれば…くらいのもの。 つまり、旅行に行きたい!→どこにする?→とりあえず日本地図見る→県名に惹かれたところに行く、というような流れ。 だから、傍から見れば「なんでそこ?」と言われることが多い。そしてそう聞かれても私も「んーなんとなく惹かれたから」くらいのことしか答えられない笑 とりあえず惹かれた県名のところについてそこから観光名所を調べることがほとん
活字を読めなくなった。 読んでるはずなのに読んでいない。 分かってるはずなのに何も分かっていない。 なぜ読めなくなったのかも分からない。 なにもかも分からない。分からないことだらけ。 ??? なぜ。どうして。どうしたらいいの。 高校3年生の春同じことが起きた。 その時も分からなかった。 分からなかったから放置した。 ... 気づいたら読めるようになってた。 そして今 活字を綴る 言葉が乏しくなった。 必要な時に適切な言葉が出てこない。 直前までそこにあった言葉が 話そう
高校2年生の春 アメリカにある小さな街Pascoで2週間ホームステイした。たった2週間だったけど、この2週間が私にとってどれだけの自信になり、誇りになったことか。 あれからもうすぐで5年が経つ 恐ろしいほど時が経つのが早くて、当時は想像ができなかったほど世界の状況も変わった。私の人生もそれだけ進んでる。だけど、Pascoでの想い出は5年前から止まったまま。 本当は、本当に大学1年生の時に再び訪れるはずだったのだ。そしてそのことを伝えてもいた。なのに、そんな状況ではなくなっ
以前友達が「私、将来ニートになってゴミ部屋に住んでそう」って言っていた。もちろん、全然そんな感じの子ではない。でも、なんかそんな感じがする、と言っていた。周りは、私も含めて「何それー!絶対そんなことないよ!」と言っていたが、その友達は「皆ない?将来こうなってそうって予感、あるでしょ?」と聞いてきたが、皆「んーないかも笑 考えたことないよ」と言っていた。私もその時はないし、考えたこともない、と言ってしまったけど本当はある。むしろ、私のこのずっと前からある予感は皆にはないと思っ