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太陽の空より vol.6 河村聡人

連載タイトルを追いかける道半ば、太陽活動に振り回されての寄り道の中編です。本記事が公開される時には1か月前の話になりますが、今回の太陽フレアとそれにともなう低緯度オーロラの観測がどれほど珍しいことなのでしょうか?昔の記録を少しひも解いてみます。

低緯度オーロラは赤く、それは地平線越しにオーロラの上部分だけを見ているというお話を前回しました。
その理屈で云うと北の空が赤く光る現象の記録を探そうと思えるのですが、ことはそれほど簡単ではありません。そもそもとして、めったに起こらない低緯度オーロラに気付ける人がいないといけません。
暗くなったらすぐに寝るという生活の人では気付けません。そして気付いたとしてもそれを記録しなければなりません。
記録には紙と墨などが必要ですし、文字にしろ絵にしろ表現の能力が必要です。そして記録されたとしても、現代の我々の手元にまで残り、認知され、判読されなければなりません。
いざ判読しても、文字や絵が表す現象がオーロラであるか判別できるかは保証されません。

夜空を日常的に観測し、記録してきた人々が日本にはいました。陰陽師です。彼らが日常的に夜空を観測してきたのは我々ではなくその当時の朝廷や権力者のためでした。
これは政をはじめとした地上の状況の良し悪しは、空に現れた印から読み取れるという観念に基づくものです。そしてこの観念は日本独自のものではなく、古代中国から東アジア各地に根付いたものでした。
残念ながら陰陽師らの日々の観測の記録は残っていませんが、この観念のもと、特徴的な現象は東アジアの歴史書に刻まれることになります。

この歴史書に残った謂わば公式な観測記録は、当時の専門家によるものであり、記述の一貫性がある程度あります。
一方で、観測地は主に都であり、不運な悪天候の影響だけでなく、記録された現象の空間的な広がりが分かりにくいという欠点があります。
状況が変わったのが江戸時代に入る頃です(厳密な時代は知りません。専門家ではないので曖昧な情報でご容赦ください)。
江戸時代に入ると一般庶民でも紙と墨と筆が手に入り、識字率も上がり、日記などの個人的な記録が大量に作成されるようになります。
現代においてSNSにいろいろと書き込むのに通じるところがあるのかもしれません。
尚こういった時代背景を無視して、単純に記録の数だけ拾うと、江戸時代には目的の現象の頻度が上がったなどという間違った結論にたどり着いてしまいますのでご注意を。とは言え、様々な記録が増えることは後世の我々としては嬉しいことで、同じ現象に対しても異なった人が異なった表現により記述されるようになり、記述に対する理解が深まります。

その中でも第一級の史料は高力種信の「猿猴庵随観図絵」に残る1770年(明和7年)の低緯度オーロラの記録でしょう。
この時の現象はかなり大規模なもので、この「猿猴庵随観図絵」の濃尾平野から北を望んだ絵図だけでなく、本居宣長による京都から北を見た絵図も残っています。
「猿猴庵随観図絵」の絵図が優れている点は、現象の写実性だけでなく、オーロラに対する人々の反応も生き生きと描かれていることです。遠くの火事か何かかと思い、防火のために屋根に水をかける人々もいれば、念仏を唱えるお坊さん、あきらめてふて寝するお坊さんなど当時の社会が描かれています。
この資料は国立国会図書館のデジタルアーカイブにて誰でも登録不要で閲覧できます。

このような当時の人々の反応というのは、現象論的な研究とは異なった観点になります。というよりも、このような史料の調査は元来、当時の人々や社会を知るという観点において、歴史学や国文学などの分野で行われてきました。ですので、このオーロラ史料の研究では、僕のような宇宙物理屋だけが集まってあれこれと手探りで調べるのではなく、史料の専門家と組んでいました。
次回はより具体的な記述やその性質についてお話していきたいと思います。また、陰陽師による観測記録が現代の天文学・宇宙物理学に果たした貢献についても、どこかの回で詳しくお話ししたいと思います。

河村聡人(かわむら あきと)
アラバマ州立大学ハンツビル校卒(学士・修士)、京都大学大学院退学。太陽・太陽圏物理学が本来の専
門。最近は地球観測も。天文教育普及研究会2023年度若手奨励賞受賞。寄り道を今回で終えようと思ったら終わりませんでした。記録じゃなくて、自分の目で本物のオーロラを一度は見てみたい。

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