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ドラマ『南くんが恋人!?』 ドラマよりも脚本と原作を無駄に語る(ネタバレ雑感 )

2024年7月-9月期テレ朝火曜9時枠の連ドラ。
それほど真剣に観ていたわけではないんですが、岡田惠和脚本の連ドラは基本欠かさず観るようにしているので、あくまで鑑賞記録を…
と思っていたら、意外と語りたいことがあった(笑)

本作は男女逆転版ですが、やはり岡田惠和脚本の武田真治&高橋由美子版ドラマ『南くんの恋人』(1994年)も、だいたい同じ話だったんじゃないかな?
実は全話録画してあるんだけど(数年前にBSで再放送してた)、観る気が起きなくて(笑)

結論から言うと、今回の男女逆転版も「悪人の出てこないホームドラマ」という実に岡田惠和らしい話。

第6話でしたかね、「Heaven Can Wait」って出てくるんです。
ルビッチの映画『天国は待ってくれる』(1943年)ですね。
岡田惠和原作・脚本の映画で『天国は待ってくれる』(2007年)というのもあります。
要するにこのドラマは「天国は待ってくれる」というお話なのです。

「悪人の出てこないホームドラマ」と言いながら、岡田惠和の話はほぼ全て「死」の匂いがつきまといます。
あの『ちゅらさん』(2001年)ですら、恵里えりぃと文也君の恋の始めは、文也君の兄の死ですからね。
厳密に言うと、死に限らず「欠けたもの」を「家族(疑似家族が多い)」らが埋める(昇華する)という物語。『ビーチボーイズ』(1997年)が典型例ですね。

昨年の『日曜の夜ぐらいは…』も同じです。
欠けたものを互いに補い、その先へ行く疑似ホームドラマ。

先に死の予感を漂わせて、「その時」が来るまでの「幸せな時間」を描写するパターンもあります。『セミオトコ』(2019年)とか『にじいろカルテ』(21年)とか。本作はこのパターンに近い。

ちなみに『最後から二番目の恋』(12年)なんかは合わせ技ですね。

で、実は今回語りたかったのは、この原作マンガが「悪人の出てこないホームドラマ」から最も遠い所にある、ということなんです。

実は原作マンガが我が家から発掘されましてね。読み直したんですよ。
1986-87年の連載だったようですが、文庫版でして、帯にニノ&深キョン版ドラマ『南くんの恋人』(2004年)の宣伝が載っていたのでその頃に買ったのでしょう(ドラマは観てないけど)。
この時期、過去のマンガの文庫化が流行ったんじゃなかったかな?やたら買ってて、内田春菊とか岡崎京子とか吉田秋生とか読んでました。

で、原作マンガは、ホームドラマどころか、家族なんか一人も出てこない。
ひたすら、南くんとちよみだけの話。
内田春菊曰く「この時期(内田春菊20代後半)家族と断絶していた」そうで、彼女の頭の中に家族を描くという思想がなかったのだろうと推測されます。

さらに言うと、ちよみが小さくなった理由は一切描かれません。
内田春菊曰く「小美人ポルノ」のつもりだったそうで、掌サイズで裸の女がいたらエロいよねということのようです。
実際、一緒に風呂入ったり、互いの性器を見たりしてるもん。なかなかのエロ漫画ですよ。だって内田春菊だもん。

ところがですね、内田春菊自身は意識しておらず「意外な反応だった」と言ってるそうなんですが、「愛し合っているのに交われない異性」の物語になっちゃってるんですね。要するにプラトニック・ラブ。
実に切ない物語なんですよ。そして、残酷な物語なんです。

それに、小さなちよみのことを南くんは「面倒だ」と思う時もあり、逆に小さなちよみは南くんを「扱いが雑で乱暴だ」と思うこともある。
この「面倒」「雑で乱暴」は、身体の大きさに関わらず、男女間が抱く普遍的な感情ではないでしょうか。
この「小さな恋人」という寓話は、人間の本質をえぐり出している。
南くんが夢の中で「ほーら、やっぱり人形じゃないか」とちよみの手足をもぎ取る残虐描写もあるしね。
(おそらく当時の内田春菊の破壊衝動の現われだったんじゃないかな)

そうした「毒」をきれいさっぱり拭い去ったのがテレビドラマ。
「あく抜きした」と言ってもいい。
でも、それほど「甘い」味付けはしてなかった気もするんですよね、このドラマ。

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