周りの目から解放されようー恥との決別-
日本人に顕著に見られる「恥」という感情。
そんな日本人の心のありよう・世間に対する考え方・生活習慣がどのように形成され、また日本人の行動する根本原因となっているのかを分析したルース・ベネディクトの名著『菊と刀』。
今回は「恥」という概念に焦点を当てて、本書を考察したいと思います。そして、日常生活でその「恥」とどのように向き合うべきかも考察出来ればなと思います。
どんな内容?
内容に親しみを持ってもらうために、これからの書評では、まずフライヤー形式で紹介する本の内容を掲載します。
本書で重要になってくる考えが、「恥」という概念です(フライヤーでも大きく書いています)。
恥とは何か?
よく耳にする「恥」とはどんな心の状態を指しているのでしょうか。
大辞泉で恥で調べると、次のように定義されています。
それによって名誉や面目が損なわれる行為。事柄。
これまで周りと積み上げてきた評判を損ねて、人様に迷惑もかけてしまうような行為。こんなところでしょうか。
日本人は子どもの時、親から行儀作法を守り、周りの期待に背いてはならないと口酸っぱく教え込まれる、という事実をベネディクトは取り上げました。
そして自分がどう思うか、感じるかよりも、周りにどう思われるのかの方を日本人は意識し、世間という考えもこの日本人の他者への過剰な意識と連動しているとベネディクトは分析しました。
アメリカは罪の文化です。罪は、内面的な罪の意識から生まれる一方で、恥は、外面的な強制力(○○しないと恥ずかしい思いをする)から善行を行います。つまり、日本の文化は他者本位の文化だと言えます。
恥は社会的に作り出された代物
以上のベネディクトの内容から次のことが窺えます。
恥という感情は決して普遍的なものではなく、文化・教育によって作り上げられた感情である。
あまり、面白みのあることを言っているようには自分でも思えません。しかしながら、恥・世間といったものに如何に私たちの立ち居振舞いが左右されているかを認識することはまず大切だと思います。
例えば、道端でつまずいて大胆にこけてしまった経験は誰にでも一度はあるかと思います。
自分が転んだ時、なんとも言えない恥ずかしい気持ち、早くその場から立ち去りたいという感情に襲われます。しかし、いざ他人が転んでしまった場面に遭遇した時、私たちはその人のことについて何か負の感情を抱いているでしょうか?
”あぁ、こけちゃったんやな、大丈夫かな?”
この程度でしょう。世間の目なんてものは実は存在しないのも同然ではないでしょうか?
存在しないものに私たちの行動は影響されていると認識するだけでも、世界はこれまでとは違った姿を見せてくれると思います。人文科学の意義もそんなところにあるんじゃないかな、と私は信じています。
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