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本当に楽しいことだけで良いのか?-人生における苦と楽

漠然とした違和感

「人生自分の好きなことで生きていきたい。」

近はよくこういった言葉をよく見かけます。ただ、個人的にはこの言葉に対してどこか納得出来ませんでした。何というか、違和感をずっと感じているとでも言いましょうか。

この長年抱いてきた違和感に対する現状の答えはこうです。

「人生自分の好きなことで生きていきたい。」という言葉は、人生を生きるということが誰にとっても多かれ少なかれ苦しいことだということから目を背けているように思われるから。

この答えに辿り着くための大きなきっかけとなったのは、コロナ禍による外出自粛生活でした。

自分の好きなことだけをして良い時間=幸せ?

今年の4月後半に何度目かの緊急事態宣言が発出され、私は職業柄自宅待機を要請されました。自粛を要請されたその時は、「やった、好きな読書をいくらでも出来る!」と単純に喜んでいました。

しかし2週間ぐらい毎日同じ生活を送っていると、本を読んでいてもどこかいつもより楽しめていないように感じられました。あれほど好きな読書に身が入らない。これは毎日家に籠っていることがもちろん原因だと思いますが、毎日が同じということこそ、恐らく閉塞感の根本原因のような気がします。

毎日同じことをしていると、人生は、無数の現象の単なるに流れに過ぎない気がしてきます。人生に楽しいことが含まれているのは恐らく、そのコントラストとしての苦があるからです。

人生好きなことだけで生きていくのには、またべつの辛さがありそうです。そしてその辛さは退屈という人間が最も苦しいと感じることに加担していくのではないでしょうか。

退屈という人間の宿命

ここで少し脇道にそれます。國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』で、國分氏は、哲学者のハイデガーの退屈に関する議論を紹介しています。

イデガーは退屈を3種類に分類しました。

1.退屈の第一形式(何かによって退屈させられること)2.
2.退屈の第二形式(何かに際して退屈すること)
3.暇の第三形式(何となく退屈だ)

さて、暇の第一形式についての例。

こんな状況に誰でも一度は経験したことがあるでしょう。私たちは退屈な時間を気晴らしでなんとか誤魔化し、進むのがノロい時間を出来るだけ早くするために躍起になります。この状況では、私たちはぐずつく時間によって引き止められています。この「引き止め」られている受動的な状態、これが退屈の第一形式です。

続いて、退屈の第二形式についての例。

今日は前々から誘われていたパーティへ出掛ける日だ。パーティの参加者らと愉快な話をして充実した時間を過ごした。満足して帰り、明日の仕事の準備をする。するとその時私はこのパーティに際し退屈していたことに気付いた。

これも誰しもが経験したことがあるでしょう。楽しんだつもりで家に帰るとどこか浮かない気持ちになり、自分は本当に今日のお出掛けを楽しんだのだろうかと。

これは少し少々込み入った構造になっています。このパーティの出来事に気晴らしらしきものは見当たりません。では、このパーティの例のどこが退屈なのでしょうか。実はパーティという出来事それ自体が気晴らしなのです。第二形式の場合には、主体が置かれている状況そのものが退屈なのです。

最後に退屈の第三形式。何となく退屈だ。

この拍子抜けするほどシンプルな言葉がハイデガーによると最も深い退屈だと言います。なぜなら、このタイプの退屈はいつどこでとかに関わらず起こるものだし、この退屈に対する気晴らしは見つからないからです。

何となく退屈だという状況は恐ろしい

では、本筋へと戻りましょう。私が緊急事態宣言の自粛生活で感じていたのは、恐らく退屈の第三形式です。好きな本を読んでいてもどこか退屈・閉塞感を感じていました。この退屈に対処する気晴らしは存在しません。というのも、好きなことをするという最高の気晴らしですら通用しないのですから。コントラストのない生活は、私たちの人生を退屈の第三形式へと追い込んでいくのではないでしょうか?

人生はそれなりに苦しいという事実から目を背けない

人生は基本的に苦しいものだと思います。そんな人生は嫌だ、楽しいことだけをして生きていきたい。そう思う気持ちも十分理解できます。ただ事実から目を背けるのはやはり態度としては良くないと思うのです。

昨今の「好きなことだけで生きていく。」という言葉。この言葉の好きなことって本当に好きなことなのでしょうか?私はどちらかというと、人生の辛い部分から意図的に逃れるための手段でしかないように思えるのです。人生の辛さからは誰も逃れられないのにも関わらず。

「好きなことだけで生きていく。」好きなことは、多分にどんなことでも良いのです。人生の辛さから疑似的に逃れられるのであれば。これは別に本気で好きなことを追求している方々への批判という意味ではありません。推測ですが、本気で好きなことを追求されている方々は、その追求の過程で苦も楽も経験していると思います。彼らにとって好きなことには苦しみも付きまとっているのです。

「好きなこと」を目的と取るか、一時的に人生の辛さから逃れる手段と取るかで大きく変わってくると私は思います。そして後者の場合も人生の辛さ、退屈さからは逃れらず、むしろ人生の辛さを正面から向き合う場合よりも余計に虚無感に襲われると思うのです。

楽しいはずの人生がどこか退屈だという声がどこからともなく聞こえてきてしかもその声を消すことが出来ないのですから、相当な苦でしょう。これはまさに退屈の第三形式ではないでしょうか。

No pain, no gain.

英語に"No pain, no gain."という諺があります。苦労無くして利益なし、苦は楽の種といった意味です。日本語にも、「楽あれば苦あり」という諺があります。結局人生は辛いけど、楽しいことも起こるものなのです。

いたずらに人生の辛さから目を背けると、退屈の第三形式から逃れられなくなってしまうでしょう。そしてそんな人生は、本当の意味では楽しくはないのです。


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