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退屈な時間は無駄か?-退屈について考える③

現代では、休日に際して充実した一日を過ごさなければならない、というある種の強迫観念に囚われそうになります。休日にインスタ映えで話題のカフェに行ったり、将来のキャリアアップのために自己投資をしたりする方も多いでしょう。

ですが、そこで一つ質問。

それは本当に自分がしたいことなのでしょうか?

この休日の過ごし方には、時間を無駄にすること、退屈することを一種の損失と感じさせる心性があると指摘したのが、鷲田清一氏です。

私はさらに考えを進めて、この心性の裏にある直線的な時間感覚と現代的な退屈にも関係性があるのではないかと考えています。

直線的な時間感覚

現代の我々には、時間が一方向にたゆまず流れていくということは自明の理だと考えています。しかしこの時間感覚は、西洋的な感覚です。

旧約聖書の創世記の有名なフレーズがそれを物語っているように思えてなりません。

はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。 (創世記第1章第1~3節)

”はじめに”という言葉からもわかる通り、聖書の世界では、時間は有限なのです。はじまりがあれば終わりあり。時間は直線的に把握され、はじまりから終わりに向かってたゆまず進みます。

ヘーゲルやマルクスも歴史(そもそも歴史学も近代になってはじめて成立した)を理想的な方向へ向かうものとして直線的に捉えています。マルクスに従えば、人類社会は、その生産力の発展に従い、古代奴隷制→中世封建制→近代資本主義→社会主義へとその生産関係が発展していきます。

直線的な時間は、過ぎ去った今を否応なく生じさせます。この過ぎ去った今としての過去という考えにこそ、時間の無駄という考えを生じさせる根本原因があるのではにでしょうか。退屈な時間も時間の無駄の最たるものとして現れてきます。

ですから私たちは”時間を無駄にしないためにも”なにかをしなければならない。将来の役に立つことをしなければならない、と焦るのです。一日を睡眠だけに費やして何もしなかったことに、その日の終わりに後悔するのです。

円環的な時間感覚

直線的な時間感覚に対するものとして円環的な時間感覚が挙げられます。長らく日本ではこの時間感覚が支配的だったと思います。

というのも日本には四季が明瞭に現れるからです。毎年4つの季節が繰り返し訪れる。その折ごとに、田植えや稲刈りなど毎年同じことを繰り返す日々。現代ではほとんど使われていませんが、立春や大暑などの二十四節気の名残は今でも残っており、これらは、日本の時間感覚が長い間円環的な時間感覚に基づいていたことを示しているように思われるのです。

したがって、日本の古来の時間感覚には始まりも終わりもないように考えられますし、輪廻転生という仏教の概念も円環的な時間感覚に基づいていることを示していると考えられます。

退屈に対する恐怖が増幅される

國分功一郎氏は彼の著書『暇と退屈の倫理学』のなかで、何となく退屈だという状態ほど人間が恐ろしいと感じさせるものはない、だから人間はそんな退屈を逃れらるのであれば、喜んで苦しいことに参与すると記しています。

これは私自身納得のいく議論ではあるが、現代の退屈に対する忌避感は國分氏の指摘したことに加えて、直線的な時間感覚も寄与していると主張したいのです。

退屈に対する忌避は、直線的な時間感覚によって強迫的な嫌悪感を加えつつ増幅し、私たちを常に何かしらの行動に駆り立てている。

退屈を受け入れるには?

では、私たちはどうすれば直線的な時間感覚の呪縛から逃れられるのでしょうか?現代のように高度に資本主義が発展した世界においては、完全に直線的な時間感覚から逃れられることは不可能でしょう。

ある程度の生活費などを保証しつつ、興味の惹かれるがままに毎日を生きる、というのが現実的な方法のように感じられます。

ではそんな生活を送るのには、どうすれば良いのか?次回はそれについて考えてみたいと思います。

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