どこか寂しい東京
今年の1月から25年暮らした大阪を離れ、1年という短い期間ではあるけど東京で暮らし始めた。何度か旅行などで東京に来たことはあったが、毎回東京に来る度に感じるのが、「どこか寂しい」という漠然とした感情。東京で暮らし3か月、それがなぜなのか漠然と私なりに見えてきたように思う。
挨拶が少ない東京
新年度が始まり、近くの中学校でも新学期が始まったみたいだ。通勤路沿いにある中学校の近くを通る際、そこの生徒さんだろうか、通りすがりの人に「おはようございます」と挨拶している。僕も挨拶されたので、「おはようございます」と返した。でもその日も他の日でも、生徒さんの挨拶をガン無視で通り過ぎる大人たちの姿が目立つ。ペコリと会釈する人はいるものの、声に出して挨拶しかえすということはあまりないようだ。
挨拶されたのに挨拶しないなんてどういうことやねん。清々しい朝だったが心はモヤモヤした(今は多様性の時代だから挨拶しないのもアリっていうスタンスなのか…?)。うーーん、寂しいな…。
人は多いが心は少ない
この挨拶しない人たち、こういう人東京多くないか?大阪だと同じマンションの人は挨拶していたが、東京に来てから同じマンションの人に挨拶しても返してくれないという人が増えた。「どこか寂しい」東京という印象はこれに起因していそうだ。
もちろん東京に住むすべての人が挨拶しないということではもちろんないが、どう考えても大阪よりも普通に挨拶してくれる人の割合は少ない。挨拶はコミュニケーションの基本だ。挨拶がなければ、その人がどんな声でどんな表情をする人なのか分からない。たとえその人が心を持っているとしても、挨拶の返事がなければ、心が少ない人に見える。東京にはそんな心が少ない(こちらから見てそう思うだけで、その人自身が心のない殺伐とした人間であるということではない)人が多い。東京にいれば、そのうち心が荒みそうだ。最近はこう感じ、早く東京から出たい、大阪の企業に就職して間違いなかったと感じている。
なんで挨拶しないんだろう
東京は巨大な都市だ。本来人の生活を便利にするために生まれたはずの都市。しかし、今の東京を見ていると、都市が人のために存在するのではなく、むしろ東京という巨大なシステムを支えるために人が存在しているかのような様相を呈しているように個人的に思う。自分が本当に大切にしたいことはなにかということに構ってられず、日々は忙殺されていく。そうした中で徐々に心の余裕もなくなる。挨拶は心に余裕がないとできない。つまり東京というシステムが挨拶という人々の何気ないコミュニケーションを断ち切っているのではと思う。何気ないコミュニケーションだからこそ大切だ。そしてその大切さを、それが失われたときにはじめて我々は知る。
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