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5/8日:特別な存在には闘争心を。

私には闘争心がないということに気づいた。

いつも思うが、このようなネガティブな書き出しの文章を書くのは、本当はやめたいと思っている。しかし、いつも最初の1文を何と書こう、と考えたとき、真っ先に思い浮かんでしまうのが自己否定の文言なのだ。

それをポジティブに捉え返すことは確かにできるし、そんなことはもうとっくにやっていて、それが往々にして自分の強みでもあるということは重々わかっているから、それはこの際どうでもいい。

話を戻そう。

私には闘争心というものがほとんど無いらしい。

それは、過去の自己分析の結果得られた「調和」というキーワードから自ずと導き出されることでもあり、全体の調和を好むという信念を基にした性質だろう。

何か他人に負けたくないものがあるわけではないし、他人に譲れないこだわりがあるわけでもない。

いつどんなとき、何に対しても、「上には上がいる」と思ってしまう。

部活のときも、スポーツそのものは楽しかったが、勝ち負けにこだわってやっていたわけではない。

今まで経験したポジションや役割も、少なくとも自分で勝ち取って得たものではない。自分は大して望んでいなかったが、人から任されたものだ。

なぜこのことにこんなに執着しているかと言えば、それが私の愛情論と関わるからだ。

ある対象が困難な状況に陥ったときにも闘争しようとしないことは、私がその対象を愛せていないということなのではないか。

つまり、もし自分にとって大事なものや特別な存在が、誰かに傷つけられたり貶められたりしたとき、それに対して本気で怒り闘うことが私にできるだろうか、ということだ。

もしそれができないとすれば、その対象は私にとって特別な存在となり切れたものではなかった、という烙印を押されてしまうのである。

私はそれが悲しいのだ。これによって、私が愛の無い人間であるということが本当に証明されてしまうような気がするからだ。

調和により生み出される愛と、闘争によって守られる愛というこの2つが、私の愛情論の2つの愛に対応している、というのが今の私の考えだ。後者を本当に自分の中で実践するには、自分が受け入れても良いと思える愛の対象と、自分が闘おうと思える何がしかの敵を見つけなければならない。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。