見出し画像

死に際はどうだろうか?


死は誰でも平等に訪れる。早いか遅いかで不平等という話もできるが、それでも必ずやってくる。一度死ぬと、もう二度と生き返らないのだ。自分に割り切る覚悟などできるものなのだろうか。

死の判定

人の死亡は医師が判定をしている。「心拍の停止」、「呼吸の停止」、「瞳孔反応の消失」の3つを確認する。心臓が止まり、呼吸もなく、黒目に光を当てても瞳孔に変化が見られない状態である。それが一定時間続くと、死と判定がされる。

告知された心の変化

死を告知された患者には、心に一定の変化が見られるという。アメリカの精神科医エリザベス・キューブラー=ロスは5段階の心の変化を示している。

死を受け入れるまでに、①否認 ②怒り ③取引 ④抑うつ ⑤受容 の5段階のプロセスをたどるというのだ。

医者⇒患者(死の告知)
「もう、長くはありません。もって、せいぜい・・・」

(患者の心の変化)
①否認
ショックを和らげるため、「何かの間違いだ」と事実を否認する。

②怒り
「どうして私なのか」と怒りの感情になる。健康な人をうらやむ。

③取引
「よい行いをするので延命してください」と運命や神に対して取引を始める。

④抑うつ
病気が否定できなくなり、喪失感や絶望感から抑うつ状態になる。

⑤受容
苦悩をこえて、訪れる死を静かに受容するようになる。

(※順番の入れ替わりはある。すべてが現れるわけでもない)

この通りになるのかは分からない。自分の死についてあまり悩んでもしょうがない感じもする。ボケたり死んだりしてしまったら、自分でどうにかできる話ではないからだ。周りが心配すればいいだけかもしれない。

「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(「論語」里仁)
(朝、真理を聞くことができれば、その日の夕方に死んでも悔いはない)

死に際に気にする真理とはいかほどのものだろうか。自分の最後はどんな心持ちでいるのだろうか。苦悩をこえて、訪れる死を静かに受け入れているのだろうか。

数十年のつかの間の人生である。泣くか笑うかしかない人生である。皆さんは、悔いのない人生を送られているであろうか。


<参考>
Newton(ニュートン) 2020年 07 月号 
「死とは何か」p28,29,60,61

[WORD-WISE WEB 三省堂]
https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kotowaza02

最後まで読んでいただきまして、ありがとうございます。