見出し画像

間違いを指摘できない話

今日も起きれました。

今日は九時半起床、ボーナスが乗りつつあるトープ洞窟はだいぶやりやすくなりました。まだまだですけどね。
今日は少しだけ春の文学フリマに出そうと思っている本の原稿が進みました。少しだけですけどね。本当は観たい映画が沢山あるので行こうかなーと思ったんですが、起きれませんでした。本当にしょうがないやつだなぁと我ながら思います

さて、今日は自分語りをしたいと思います。

私は他人との会話の中で間違いがあったときに基本的に訂正をしません。

ざっとした例で言えば
「たいやきってしょっぱくて美味しいよね~」って言われたとします。
その場合「それたこやきじゃない?」と指摘するより先に
(しょっぱいたいやきあったかな……)からの
(あっこれたぶんたこやきの話だ)からの
(まぁ私がわかるからいいか……)となります。
先日これをやり盛大に「訂正しろよ!」と言われてしまい「ええ……」となってしまいました。

いや、分かっているんです。自分がどれだけ残酷なことをしているか。
間違いを訂正して「そうじゃん~」って笑って終わりにすればいい。
分かってはいるんです。
でも相手に訂正するというのは相手の話を遮ることになります。これが私にはすごく難易度の高いことに思えてしまいます「。
それに一瞬でも相手に指摘をされて恥をかかすことが嫌なんですよね……。
何回も言いますが間違っているのは認めます、はい。

なんで、こんなに嫌なんだろう、と思っていたときに配偶者との会話の中で『深煎り』を『深掘り』と言ってしましました。そのとき私は完全に『深掘り』だと思っていたので「『深煎り』じゃない?」とツッコまれた瞬間にこう思ったんです。


うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーきえたーーーーーーーーーーーーーーーーーいーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「あ、これだ」と合点がいきました。己の間違いに対する極端な恥ずかしさが他人にも共通している物だと認識してしまっているんだなとようやく気がつきました。恥ずかしさ、なんでしょうか。もしかしたら恐怖なのかもしれません。
ASDも持っている私は、子どもの頃本で得た知識を親の前で使っていた時期があります。でも理解が追いついていなかったり、ASD特有の空気の読めない発言で私は親の顔を何度も歪ませてきました。いまでもフラッシュバックする言い間違いが多数あります。一種のトラウマを拗らせた結果なのかもしれません。
とはいえ親を責める気はなく(確かにあの使い方はひどかったなとか私でも変な顔しちゃっただろうなと思うことが多々ある)、最終的には私の考え方の問題なんだろうな、と思っています。

すくなくともその人からは「間違っていたら指摘していいよ」と言われているので、少しずつ「それって○○じゃないですか……?」と指摘できるようになりたいと思います。
まあ勿論私は違ってる場合もあるんですけどね、気をつけます

そんな感じです
それではおやすみなさい


サポートいただいた分でやりたいことリストを達成していきます。よければ支援お願いします。