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43.素敵な記憶喪失

僕は人の話をよく覚えている人間です。
妻が話したことや、友達が話したことも、きちんと覚えていて

「よくそんな話、覚えてるね!」

と話をした当人から驚かれることが今までに多々ありました。

「全然、興味無さそうに聞いてたくせに!!」

と、まあ最後には何故か怒られてしまう、なんてことも多々あるのですが、それはまた別のお話です。


記憶力の良さは自分でも自覚しているところもあり、学生時代は勉強もそれなりにできました。特に暗記系の科目は、興味はないけど、良い点数が取れる、という不思議な現象が起きていました。


「年号?昔の人がいつ何やったかなんて、興味ねーよ!」
覚えてしまうのです。年号。
覚えてしまうのです。いつ誰が何をやったのか。
勝手に脳みそが。


「英単語?そんなの知らないぜ。まだ日本語の奥深さも学んじゃいねーのに!」
覚えてしまうのです。英単語。
覚えてしまうのです。英文法。
勝手に脳みそが。

とまあ、そんな具合に脳みそを放し飼いしていた人生でした。


ところで皆さんお気づきでしょうか。
昔の自慢話や武勇伝をタラタラと語る人間は、現在の自分に不安や悩みがある、ということを。
そして、それは僕も例外ではありません。



休日は妻の負担にならないよう、なるべく僕が家事をしようと心がけています。
金曜日の夜、土日の献立を考えながら、スーパーでお買い物をします。
「ああ、そう言えば卵を切らしていたな。」
そう思った僕は、いくつかの食材とともに卵を1パック買いました。

何気ない日常の1コマです。しかし、事件は何気ない日常の延長戦上に起きるのです。


土曜日の朝。
眠い目をこすりながら、インスタントのコーヒーを入れてるときです。
なぜか妻が心底申し訳なさそうな表情をしていました。

その表情を見て、眠気がパッとどこかに飛んでいきました。

ただ事ではない!

何か良くないことが起きているのは、火を見るよりも明らかです。
妻は僕に近寄り、重い口を開きます。


「あの。誰が悪いってわけじゃないんだけどね。」


妻の枕詞を聞いて思うのです。
うんうん。誰も悪くない。たとえ妻が何をしてしまっていようが、優しく抱き寄せ「大丈夫だよ。妻は悪くないよ。」と言ってあげよう、と。


「……卵なんだけど。」


え?卵?どうした、卵を割ってしまったのか?それくらい大丈夫だ。掃除すればおしまいだ。


「まだ1パック分残ってたよ。間違えて新しいの買ってきちゃったんだよね。」



え?え?え?僕の頭はパニックです。開いた口が塞がらず、事態が把握できません。


「冷蔵庫のね、違う段に入ってたから、入れるときにも気が付かなったんだよね。ごめんね。私がもっと分かりやすいところに置いておけば良かったね。」



え?え?え?妻の優しいフォローが胸に突き刺さります。僕の瞳孔は完全に開ききっています。ほとんど気を失いかけた、満身創痍の状況で思うのです。


「悪いの完全に、僕じゃないかっっっ!!!」


忘れていたのです。
数日前に卵を買って、備えていたことを。

今まで脳みそを放し飼いにしていたツケなのでしょうか。
あまりのショックに入れかけのコーヒーを放置したまま二度寝した僕に、妻は文句ひとつ言いませんでした。



くたくたに疲れ果てた仕事終わりのことです。
その日はやけに忙しく、会社を出たのが随分と遅い夜でした。
体には疲労がたまっており、家に帰る足取りも重くなっていました。
そんな僕を嘲笑うかのように、都会のビル風がサーッと僕を通り過ぎていきます。


「寒いっ!」


と思わずコートのポケットに手を入れて、身を縮こませながら前進していました。
すると、何やらポケットに入れた手に、固形物が当たるではありません。
その日着ていたコートは、この冬初めて着るもので、クローゼットの奥から出したばかりのものでした。ポケットに何かを入れた記憶も無いし、いったいなんだろう。
僕は、固形物を掴み、取り出してみました。



なんとそれは、個装された期間限定マロン味のアルフォートではありませんか!!



僕は栗が大好きです。そしてチョコレートも大好きです。
疲労困憊の体に、これ以上のご褒美がありますでしょうか。
口に近づけただけで、栗の香りが広がります。
口に入れたら、もう僕自身が栗なのではないかと疑ってしまうほどの栗風味です。
甘いくちどけのチョコレート、ビスケットのサクサク感。なんて最高なのでしょうか。


マロン味のアルフォートを食べ終えた余韻に浸りながら、僕は「妻さん、ありがとう。」と呟きました。その言葉はビル風に乗って、家で僕の帰りを今か今かと待っている妻の耳に届いたことでしょう。


コートにアルフォートを入れたのが、僕でないのなら、妻がこっそり入れてくれたに違いありません。僕に気が付かないように、そっと入れてくれたのでしょう。今頃驚いている僕を想像しながら、ニヤニヤしているに違いありません。


「ああ。本当にありがとう。」


この感謝の言葉を僕の語彙力で、きちんと伝えることができるんだろうか。
そんな不安を抱えながら、幸せな気持ちで家に帰りました。

家に着き、玄関を開けると、いつもと変わらない様子で「おかえり~!」と妻が出迎えてくれます。

またまた~。普段通りを装っちゃって。

そんなことを思いながら僕は、意を決して口を開くのです。


「妻さん。マロン味のアルフォート、ありがとう。びっくりしたよ。今日仕事も忙しくて疲れていたから、本当に嬉しかったよ。仕事終わりにこんなにも幸せな気分になったことは……。」


そこまで言って初めて、妻の様子がおかしいことに気が付きました。
この人は何を言っているんだろう、そんな表情で僕をじっと見つめているではありませんか。


「ねえ。夫さん。今朝のこと覚えてない?私がアルフォート入れるねー!って言ったら「ありがとう、入れといて」って夫ちゃんが返事したからコートに入れたじゃん。」



稲妻に打たれたかのような衝撃でした。
そのやりとりがゴッソリ記憶からなくなっているのです。

おいおい。脳みそよ。
最近なかなか手荒なマネをしてくれるじゃあないか!!

がっくりと肩を落とす僕を見て、何かを察した妻は、また僕のことを優しく慰めるのです。

ああ。ポケットの中のアルフォートを見つけたときの幸福感。あれは一体、何だったのだろうか。

【ペンギンキッチンHP】

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