生きる理由と死ぬ理由
溺れる者は藁をもつかむ
溺れそうになったとき人間は何か掴まるものを探してもがき、それが全く役に立たないとわかりきっている藁の一房だったとしても縋りついてしまうということを表したことわざである。
意味するところは追い詰められた人間は正常な判断力を失ってしまうということだ。藁の一房を握りしめたところで体が浮かび上がることはないなんてことは普通に考えれば誰にだってわかる。
ここの扉をたたく人たちも同じだ。
みんな溺れているのだ。流れ込む鉛に肺をつぶされ、押し寄せる水銀に網膜を焼かれ、一筋の光すらない闇の中でもがいている。
「つまりボクは彼らにとって藁なのさ。なんの役にも立たないが、積極的に毒することはない」
白と黒だけでつくられた世界で少女は笑う。
「彼らはボクに縋りつくことでもしかしたら呼吸ができるようになるのかもしれないという希望を得る。ボクは縋りつく彼らの話を聞きながらその懐をまさぐって探し物を探す。要するに等価交換というわけだ」
はたから見れば子羊の告解を聞く聖母のように見えるのかもしれないが、僕には言葉巧みに契約者をかどわかす悪魔にしか見えない。
「おっとそろそろ今日の子羊が来る時間だ。無駄話はここまでにしてお茶の準備をしてくれたまえ」
「……了解」
「うむ。数が減ってきていたはずだから後で新しいものを注文しておいてくれ」
気味が悪かろうが変人だろうが悪魔だろうがここでは雇用主とアルバイト。通販サイトで紅茶のボタンをポチることくらい自分でやればいいだろう、などと正論を言う権利すらない僕は黙々と電気ケトルでお湯を沸かす。
♢♢♢
「し、失礼します」
今日もまた溺れる者が藁を探してここに流れ着く。
「ようこそPaleasへ。ボクはマリア、ここの責任者だ。早速で悪いが本題に入ろう」
少女は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、不安そうにソファに腰かける子羊に語り掛ける。
「さぁ、君が死にたい理由をボクに教えておくれ」
【続く】