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一滴の滴(しずく)

緊急事態宣言中、本屋さんが休業して欲しい本が買えなくて、Kindleで文字ばかりの本か漫画を空き時間に読んでいた。

今は気軽に本屋さんで本を買えるようになったのはうれしい。

私が読みたくてずっと探していた本がある。五木寛之先生の「大河の一滴」である。

五木寛之先生の本といえば「親鸞」が代表作だけれど、親鸞の生涯について京都・龍谷大学へ取材を重ねて出版されている。

取材の中で自分自身の今までの生涯のこと、親鸞が伝えようとしたことなどをご自身なりに考えて書かれている。

親鸞聖人は、浄土真宗の開祖であるけれども考え方がなかなか理解されずに、異端の教えだということで流罪まで受けた方だ。今は西と東で分裂はしたけれど、教えが残ったのは「人は生まれながらにして罪人。救いを求めたければ南無阿弥陀仏を唱えるがよい」と残している。

その他にも弟子の蓮如が親鸞聖人が残した言葉を「御文(おふみ)」や「歎異抄」として文献を残し、今でも受け継がれている。

五木寛之先生が「大河の一滴」で語っているのは、

人間というのは、ひとつぶの滴であって、濁っていても澄んでいても大きな川に飲み込まれてしまえば、大した存在ではない。生きていてもいつかはこの世と別れる時がある。その時までどう生きるかが大切なのだ

濁るというのは、苦労したり悲しいことがあって、心が曇る時。晴れ間が見れなくて何もかもが嫌になる時。誰もが体験する。「苦労なんてしたことない」って人は、気づいていないか言いたくないかだろうし、本当に苦労をしたことはないのだろうと思う。

苦労は、物差しがあって測ることなんてできないし、比べようがない。苦労をしていても、もう生きるか死ぬかまで追い込まれることがある。

五木先生ご自身は、満洲で生まれ、第二次政界大戦終了と同時に満洲から日本へ逃げる最中に、ご両親を亡くし、なんとか日本に辿りつけたけれどもその惨めさをどうすればいいか、考え生きてきたという。

私もそれなりに苦労はしたけれど、苦労した内容を文章化してみるとものすごい量になると思うし、話したところで「私だって、僕だって」と苦労自慢大会になってしまう。

苦労というのは、誰か審査員がいて「あー、大変だったね」と審査するものではない。そうしたところで、何もいいことはない。苦労で得たものでも、その後の生き方に大きな影響を与えたり、素晴らしい人との出会いがあったりと、何が起きるかわからない。

だから、苦労の中で知り合って、助けの手を伸ばしてくれた人は大事にしていきたいし、自ら進んで手を差し伸べる人は大切にしたい。

ただ、自分の都合の悪い人間とみなされて、捨てられることもある。これも人間の悲しい性(さが)なので、その手の人間は気にしなくていい。

今朝、家族を送り出してから、もういたずらや人の気持ちをずたずたにしたInstagramのアカウントを全て消してしまおうかと思った。嫌な気持ちでいっぱいになったから。

でもね、ある一人の書道家の方がフォロワーさんになってくださって、DMでいろいろと話をした中で「人間の苦労なんて、他人が推し量ることなんてできないんだよ。気にすることないさ」と言われて、涙がポロポロ。

ふと思い出したのが、敬愛するマザー・テレサも五木寛之先生と同じことを書いていたと思い出して、本を探して見つけた。

わたしたちのしていることが、大洋の中の一滴の水にすぎないことを
知っています。
でも、このひとしずくがなければ、
この大洋に、ひとしずくの水が足りないことになるのです。

「マザー・テレサ 100の言葉」 女子パウロ会刊より

私たちは、大きな川から見れば、小さな雨のひとしずく。濁った川の中に落ちるか、清らかな川に流れていくかはわからない。

濁った川に落ちたとしても、その中で人として磨かれて、変わっていくのだと思う。

今苦境に立たされていても、それはいつかは笑い話で終わると思う。

今朝、私の書道のフォロワーさんになってくれた人は、子育てでは娘と大ゲンカをしてささくれていた心もあり、Instagramでも嫌な思いをして、もうやけくそになって全てを捨ててしまいたいと思っていたところに、助け舟を出してくれた。

今は、心も穏やかになったし、ゆっくりと体と心を休めながら、生きて行こう。


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