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ある意味「人間味溢れるよなぁ」と思った

最近は1日のほとんどを資格試験の時間に充てているので、noteやブログ執筆、習字に手をつけていない。

たまに、Twitterの「書写アカウント」で出されるお題を息抜きタイムにしているけれど、今のTwitterほど怖いものはないと思っている。

温かい世界かと思えば、地獄の3丁目のような大炎上もありで、主治医からは「もう見るな」と警告が出たほどだ。

最近起きた大炎上の件については、一番最初のツイートを見つけるまでが大変で、いろんなところに飛び火していた。

その他にも見かけるのは、俗にいう「クソリプ」に「エアリプ」。

私も「これって私のことかなぁ」と匂うものはあったけれど、いちいち相手にしてられないし、何をどうしたいのかわからない。

自分のことはさておき。

コロナ禍に入ってもう2年。人の思考はどんどん変化したと思うし、毎日が恐怖とさえ錯覚する。

悪質な事件の報道なんて毎日だから、テレビは昼間は消している。

この間なんて、スーパーのレジでおじいさんが前に並んでいる女性に向かって「われ、間隔開けてならんでへんやろ」と品物が入ったカゴを女性にぶつけて逃げていった。

女性は反動で倒れ込んで泣き始めたので、近くの店員を探して状況を説明して、対応してもらった。(被害届提出に同行したけれど、なかなか捕まえられないという)

普通に買い物をしたいだけなのに、デューク東郷のように「俺の後ろに立つんじゃねぇ」と気をつけながら命懸けの買い物だ。

以前はもっとおおらかな世界だったと思うけれど、いつの間にこの2年間で、寛容ではない世界に満ち溢れるようになったのだろうか?

昨日、たまたま子供の通信教育の教材が届かないことで、電話問い合わせをした時に、対応の悪さに驚いた。昔、こんな対応されたっけというぐらいのレベルで退会しようかと思うぐらいだった。

結局は無事話は解決したけれど、何か後味悪い。

子供に「こんなんあってな、もうママ疲れたわ」と話すと

「ママ、そんなんな、世の中の人みんな本来の人間味溢れる行動に出てるだけやで。額面通りに受け取ったらあかん」

子供曰く、「人間味溢れる行動」とは、平常時ならセーブできた感情を抑えられる「本音部分を曝け出す行動」だという。

学校でも、理不尽な対応の先生を見てきたせいか、生徒としてあっさり分析してしまうらしい。

行動制限は出ているし、理不尽な世界、そして思い通りにならないことだらけ。いつしかそれは怒りにはなるけれど、人間は怒りとどう付き合っていくのかってことにつながる。

私とて、怒りたいことはたくさんあるけれど、自分の力ではどうしようもないことってあるのは身に染みてわかっている。

特に子供の小学生時代の時に、「いじめ問題」で思い知らされた。

あまりにもひどい理不尽対応だったから、持病のこともあるし実家の父や、あるご縁で知り合った教育系記者さんのご協力をいただけれど、納得のいかないまま卒業した。

高校生になってから、ずっとオンライン授業と対面授業の切り替えの連続、楽しみにしていた行事のほとんどの中止、そりゃ子供のストレスは計り知れないものがある。

怒りたくもなるよ。

だからさ、ある一線を超えてしまうと、連日報道される狂気的な事件が出るのかなぁとも思う。

私が最近取り組んでいることは、読書をしていて心に響く文章を見つけた時用のノートに書き留めて、精神的に辛くなった時に見るようにしている。

私の心に残るノートの実物

中身は内緒だけれど、読書の時間も増えて、心が落ち着く時間を増やしやすい。

資格試験勉強も大事だけれど、心や頭の冷静さを失うのは危険だし、ろくな考えしか湧かないようになっちゃいかんと思う。

だからこそ、どこか安全で誰かを傷つけない「安全な休憩所」は必要なわけ。

私たちは、本来なら知性があってお互いを助け合いながら、思いやりの気持ちを持ち、相手をリスペクトしながら生きてきたのに、どこでどう人を傷つけるような行為に走るようになったのだろう?

「人間味溢れる生き方」は別にやってもいいけれど、後で後悔しないように、自分の文章や言動には気をつけようねって。

特に、SNSやネットの世界(ここもそうだよね)って、顔が見えないし、その人の断片的部分しか見えないから、誤解は出るだろう。

気になる文章を見つけたとしても、書き手の一部分の姿なのだから、反撃するなら冷静にことの流れを読むことは大事。そして、反撃するならそれなりの覚悟。

一番いいのは、フル無視することが最善なんだよね。

というところで、おしまい。





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