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『君たちはどう生きるか』を観て、私たちはどう生きるか?

2013年、長編映画制作から引退することを表明した宮崎駿監督が『風立ちぬ』を世に送り出し、その4年後の2017年に再び長編作品を制作すると発表した。ジブリ作品を観て育った私にとってこの知らせは本当に嬉しい出来事だった。

10年という年月を経て公開された最新作は、前情報なしで公開され、その手法も人々を驚かせた。

謎の鳥の絵とタイトルのみが公表され、ティザーも制作されなかった。パンフレットさえも公開当日には発売されないという徹底した情報統制のもと公開日を迎えた。

この異例の公開劇は、これまで宣伝で映画の内容を出しすぎてしまい、視聴者の興味を削いでいたのではないか、という鈴木氏の思い付きから行われたようだ。

私は作品を観てその試みは大成功だったと確信した。一体この物語はどう進んでいくのだろうかというワクワク感や、宣伝によりイメージされてしまう既成概念なしに、前ぶりなしのファーストインプレッションの高まりを今まで以上に体感することができたからだ。

小さい頃、たまたま机の上にあった一冊の本の表紙に惹かれページをめくってみたら、続きが気になって夢中になる物語に出会ったという経験をしたことはないだろうか。

私は幼稚園児のころ『果てしない物語』という分厚く重たい1冊の児童書が大のお気に入りだった。次に何が起こるのかわからないふしぎの世界を旅する物語に引き込まれ、見たこともない動物の挿絵に想像を膨らませた。

『君たちはどう生きるか』を観るやいなや、私はあの時の忘れ得ない高揚感を思い出したのだ。

実は私は、『果てしない物語』の内容を全く覚えていない。わくわくとした高揚感と、ふしぎの世界に夢中になっていたという記憶だけは確かにあるのに、それ以外はストンと抜け落ちてしまっている。

その感覚は、例えば千と千尋で、トンネルの向こうの世界について千尋が忘れてしまったことや、今作での、ふしぎな世界の記憶は現世に戻ったら忘れてしまうという設定など、宮崎監督作品でたびたび取り上げられてきた

「一度あったことは、思い出せないだけで忘れない」
という状況と酷似しているように思えた。

この体験はひとえに前情報なしで視聴したからこそ得られたものだ。

だから、私が書くこのnoteもできれば映画視聴後に読んでほしい。ぜひ、まっさらの状態からしか得ることのできない世界を体験してみてほしい。




さて、私がこの作品を通して印象に残ったことは大きく4つあった。

1、令和のスタジオジブリの映像作り
2、宮崎駿が80年間抱えてきた頭の中にある世界の具現化
3、アニメーション制作への思い
4、「生きること」への監督からのメッセージ

もちろん他にもたくさんあったのだが、この記事ではこの4つについて触れていきたい。


物語のあらすじ

主人公の眞人は戦争で母を亡くす。父が母と瓜二つの妹である夏子と再婚するということで、実の母の実家でもある田舎のお屋敷へ疎開してくるところから物語は始まる。

新しい母の存在と、田舎での生活を受け入れることができず、心を閉ざし実の母への想いに囚われながら過ごす眞人は、自宅の裏にある不思議な塔の存在を知る。

家の敷地内にある不思議な塔は大叔父が建てたものだが、その大叔父が塔のなかで行方不明になってからは、誰も立ち入れなくなっているのだとか。

決して入ってはいけないと夏子から告げられた眞人であったが、謎のアオサギに母が生きていると告げられ、ふしぎな塔の下の世界に誘われるのだ。

夏子も塔の中に消えたことを知った眞人は、アオサギとともに、ヒミという幼い頃の母である少女の力を借りながら、ふしぎの世界で母と夏子を探すこととなる。

そして彼は、ふしぎの世界の創造主である消えた大叔父と出会い、大叔父はこの世界を眞人に継がせるために彼をここへ呼んだことを知る。

大叔父が作ろうと夢見た世界はまだ道半ばであったため、この世界を継ぎよりよい世界を作っていくよう眞人に求めるが、彼はそれを断り夏子、ヒミ、友となったアオサギと共に現代へ戻っていく。

1、令和のスタジオジブリの映像作り

 クリエイターたちの10年間が込められた絵は細かくなめらかに躍動していた。

主人公の眞人が階段を駆け上る足の動き、走ってお母さんのいる病院へ向かう本人目線からの景色、これまでのジブリ作品のそれとは一味違うものだった。

特に物語前半部分は極力セリフが排除され、絵と音楽からの情報に特化されていた。これまでの作品より明らかに少ない、生活音にも近い、わずかな情報のみのセリフは物語の世界観に引き込むにはこれ以上にない演出だった。

 風の谷のナウシカや、もののけ姫の始めのワンカット。さらには千と千尋の神隠し、ハウルの動く城などにもあったあの少し不気味な雰囲気を纏いながらコロコロと進んでいく場面展開など、ふしぎの世界に誘われていく感覚はさすがジブリ作品と思わせる。

とても懐かしく、思わず涙が出そうになった。しかしそんな中にも、未だかつてないほどにアニメーション作品が注目され、表現技法が進化していく現代のアニメーションを踏襲し、スタジオジブリ流に咀嚼された映像が今作にはあった。

作画監督に本田雄氏の名前が挙がったことで話題にもなったが、宮崎監督は本田氏の得意な表現を活かし、これまでのジブリにない新しいシーンを生み出すことにこだわったというエピソードを鈴木氏が語っていた。

完成した作品からは宮崎監督作品の特徴をしっかりと感じながらもこれまでになかった新しい表現を見ることができた。

クリエイターは育ち、進化を続けていて、宮崎監督もまたその進化を受け入れながら80歳を超えた今でも常に新しい表現を追求していることを改めて感じさせられた。


2、宮崎駿が80年間抱えてきた頭の中にある世界の具現化

 今作を観て、あぁ、これこそ私を幼い頃から楽しませ、感性を揺さぶり続けた宮崎監督の頭の中を具現化したものなのだと思った。

きっとジブラーの多くもそのように感じたことだろう。これまでのジブリ作品の中でも度々顔を覗かせていた、監督自身が持つイマジネーションの集合体のようだった。

中には過去作のオマージュだという意見も見られたが、そうではないと私は思う。

例えば火と水の表現はまさに監督が作品を通して表現し続けた悪と平和の象徴と言えるだろう。人間は火を扱うことで目まぐるしい発展を遂げ、戦争という大きな過ちを犯した歴史を持っている。

ナウシカ、もののけ姫やハウルの動く城などでも火は重要な役割を持つ。また水に覆われた世界というもの監督が一貫して持っている世界観で、ファンの間では平和の象徴なのではないかと言われている。ナウシカでも水は大きな意味を持ったし、シシガミの住む場所は湖だった。

このように監督の中にあり続けたふしぎの世界へのイメージであったり、これまで彼が見てきた、もしくは思い描いてきた景色と価値観そのものが今作ではふんだんに表現されていた。

一度引退を決意した監督がもう一度伝えたい、作りたいと強く思った作品から少しでも多くのものを受け取りたいと思わずにはいられなかった。


3、アニメーション制作への思い

宮崎監督はこれまで、13作もの長編映画作品を手掛けてきた。そのひとつひとつに彼の理想、意志が強く込められ、人々を魅了し、世界を牽引するアニメーション映画の巨匠へと上り詰めた。

そして令和の今、日本のアニメーションはこれまでの歴史上、世界で最も注目されるようになった。

アニメーターの誰もが宮崎駿を目指し、その意志を継ぎ、追いつき追い越そうとしているといっても過言ではない。 

しかし、商業主義のみでアニメーション制作の世界へ参入してくる人々もまた増えた。純粋に表現したい世界を形にするためにアニメを作る人以外の参入によって、創造の世界が脅かされているのもまた事実だ。

作中で、インコたちやインコ大王はただ純粋に良い作品を作りたいと願った者たちを脅かす制作者や、それに惑わされる観客たちを指しているのではないか。

インコ大王は積み木を軽んじ、結果、手中に収めようとしていた理想の世界共々自らの手で壊してしまう。

この部分は、それを表現したかったのかもしれないと私は受け取った。


4、「生きること」への監督からのメッセージ


『君たちはどう生きるか』というタイトルの通り、
「君たちはどう生きるか、私はこう生きた」。

という宮崎監督の思いを感じたような気がした。私にはこれからの世界を担う世代に対して、宮崎駿が自分の生きた道を振り返り伝えている作品のように映ったのだ。

また、この大叔父が創りあげた平和の世界とそれの破壊は、私たちに対してのメッセージのようにも受け取れた。

宮崎作品はこれまでも物語の主人公たちの生き方を通して私たちに「生」についてのメッセージを発信し続けている。

監督は平和な世界の実現のため、人間の愚かさ、悪意と向き合いながら、友である鈴木敏夫氏と共に数々の作品を世に送り出してきた。

そしてその作品の中で、人間が積み上げてきた文明はことごとく壊される。

ナウシカでも里は破壊され、ラピュタでは天空の城が崩れ去る。もののけ姫でも火によって栄えたタタラ場は緑に還る。

しかし、どの作品でも破壊の後、また人間は一から自分たちの生き方を見直し、新たな再生への一歩を踏み出すのだ。

これは宮崎監督の考える人間の辿るべき生き方そのもののように思える。

私たちは、これから先何度でも宮崎監督が生み出した素晴らしい映画の世界を見返すことができる。

しかし、その懐かしい世界に囚われるのではなく、過去の者の思いを継承した上で、自分の心で噛み砕き、糧として新たに一から自分なりの生き方を見つけて歩いていけと言われているように感じた。

作中で、母の幼い姿であるヒミは、自分がいずれ死ぬことをわかっていながら、眞人を産み再び出会うために自分の生きる時代に戻っていった。

もちろん現代に戻った母はふしぎの世界での出来事は忘れてしまうのだが、母の生きる目的は眞人という最愛の息子であったのだ。

「ヒミのように生きる目的と、自分なりの答えを持って歩き続けなさい」、という監督からのメッセージを私は受け取った。


私はどう生きるか

今の私は今作を見てこのように感じたが、ジブリの作品の素晴らしさは、観る年齢によって感じ方が万華鏡のように変わっていくところにある。

幼い頃は不思議な出会いと冒険の物語にワクワクしながらメイやサツキの視点で見ていたトトロも、大人になって観てみると家族の温かさを感じたり、子供の自由な感性に微笑ましく思ったり、大人としての目線でみるようになったことで見える世界が変わっていた。

きっと今作もまだ20代の今の私は、これから続いていく人生とその選択肢に無限の可能性があるのと同時に、これから続く人生に未知の不安を抱いているため、宮崎監督の「生きる」ことへの応援メッセージが強く響いたのだろう。

もし、10歳の頃の私が見ていたら、80歳になった私が見返したら、きっと受け取るメッセージは異なるのだと思う。

これから新たに生み出される作品を楽しみに待ちながら、人生が終わるその時まで、私は宮崎駿監督とスタジオジブリが生み出した過去の作品たちを噛み締め、自分が願う道を生きる。そして、監督から受け取ったバトンをまた次の世代に渡してゆきたい。

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