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ウルスラの話


こんばんは。書く人です。

今日はウルスラの話。

今日は『考えすぎ』という言葉を使うことを禁じます。



みなさん、観られましたか?この間の金曜日に放送していた魔女の宅急便

私は観られなかったんですけどね。

いえね、幼い頃からウルスラさんの言葉が印象に残っていまして、絵を描いていた自分にはすごく当てはまっているように感じて、その言葉で絵をやめてしまいたくなったこともあります。

「それまでの絵が誰かのマネだって気づいたんだよ。どこかで見たことがあるって。」

このセリフのことなんですけれどもね。

最近この言葉が誰しも当てはまるのではないかと思いまして。


人は人に何かを伝えるときに、

『言葉、文字、絵、図、音楽』

様々な道具を使いますよね。これって自分の中のものを外に出すときに、既存のものに当てはめているにすぎないと思うんですよ。ウルスラさんの言葉は絵を描く人などのアーティストだけではなく、人が人に何かを伝えるときすべてに当てはまっているのでは、と。日常の何気ない会話でもどこかで聞いたような、誰かが言っていたようなセリフで相手と会話しているのです。


例えば、『 幸せ 』という言葉。

幸せだ。なんていうとき、自分の中で感じているものとその言葉、合ってますか?しっくりきてますか?私は周りが言っているから、自分の中の近いものを探して無理やり当てはめているように感じていました。だから、幸せという言葉がしっくりくるものが自分の中で生まれたのも最近のことです。


今、自分が口に出しているのは既存の言葉に当てはめるために、かたちを変えた偽物なのだとしてら、なんだか気持ちが悪いですね。

嘘ついてるみたい。

自分の中にあるものを世界にある言葉では、ほんの一部しか表現できていないのだとしたら。

表現できた方がなんだか、気持ちが良さそうですよね。


ウルスラさんの言葉には続きがあってですね。

「それまでの絵が誰かのマネだって気づいたんだよ。どこかで見たことがあるって。自分の絵を描かなきゃって。」
「そのあと、少し絵を描くってこと、わかったみたい。」

というセリフなんですけどもね。


自分の思いを相手に伝えるときの既存の「道具」は、すべてを知り尽くすには人生がいくらあっても足りないぐらいに、この世に存在しています。

そして日々新しい「道具」は世界のどこかでうまれています。

自分の絵を自分で描けない人は、いろんなものを観て、触れてみると

自分の絵と出逢えるかもしれません。


そうしたら、少し絵を描くってことが、わかるのでは。













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