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カテゴライズの話


こんばんは。書く人です。

今日はカテゴライズについて。


私は何にもカテゴライズされたくなく、

カテゴライズされることが大変気持ち悪いのだ


ここ数年そう感じている。



カテゴライズ。

自分と目の前にいる人との関係を説明する時。

例えば、恋人・親子・同僚。

自分のことを相手に紹介する時。

例えば、男性・会社員・若者。

自分の状態・性格を相手に伝える時。

例えば、うつ病・サバサバ・メンヘラ。

何気なくナニカにカテゴライズされて、私たちは生きている。


なぜカテゴライズするのだろうか。

確かに、

すべての人に共通のカテゴリーに

すべての人を余すことなく配置することは、

コミュニケーションに置いて円滑で合理的だ。


しかし例えば、人と人との関係。

そのカテゴリーの範疇から逸脱した瞬間、

その関係を保てなくなると思うと、ゾッとする。


彼はこんなことを言っていた。

お互いに好きだと伝えあった。でも付き合っているかはわからない。

彼氏彼女。

私たちは、そんな昔どこかの誰かが決めた名前に

カテゴライズされないと互いの関係を保てないのだ。

ゾッとする。


親・恋人・友人・若者・大人・社会人・学生・・・・

様々なカテゴリーには

「〇〇として」の理想像がある。

たなか君は若者なのに、元気がないね。フレッシュさが足りないね。

その理想像と相手を比較して評価している。

10人いれば10通りの関係性があるはずなのに

既存のカテゴリーに無理やり当てはめて

個人を見失うのだ。

ゾッとする。


私もナニカにカテゴライズされて生きてきたが、

気づかないうちに

そのカテゴリーの範疇の中でその肩書を演じ、

その理想像に縛られて自分を忘れ

身動きが取れなくなっていた。

ゾッとする。


いつから私たちは

ナニカにカテゴライズされないと自分を保てなくなったのだろう。

きっとこの習慣からは簡単には解放されない。

これからも私はナニカにカテゴライズされる。

その方が生きやすく、わかりやすい。しかし、

私は何にもカテゴライズされたくなく、

カテゴライズされることが大変気持ち悪いのだ


だから生きづらくとも、もがいて生きていこうと思う。












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