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21.帰省の目的

中学時代を通してUKハードロックとジャズ&フュージョンを聴いていた私であるが、中学3年生の時に「ザ・スターリン」と「ZELDA」という2つのパンク&ニューウェーヴのバンドに出会った。この出会いの意味は非常に大きい。なぜなら以降の私の人生を決定付けたからである。メジャーからマイナーへのチェンジだ。
「ザ・スターリン」はヴーカルの遠藤ミチロウを中心に1979年に結成されたバンド、「自閉体」を母体として1980年結成。同年9月5日にファーストシングル「電動こけし/肉」をインディーズ・レーベルからリリース。その後1982年にアルバム『STOP JAP』で徳間音楽工業よりメジャーデビュー。3枚のアルバムをリリースした後に1985年解散した。同時期にデビューした「じゃがたら」、「INU」などと並んで日本のパンク・ハードコアシーンで活動していた。ラモーンズ直系の攻撃的なハードコア・サウンドに、言葉遊びを織り交ぜた皮肉を込めた表現の歌詞が特徴となっていた。ライブ会場では豚の頭や臓物を客席に投げつけ、爆竹や花火を投げ込み、全裸でステージから放尿するといったパフォーマンスで話題性を呼んだ。東京のライブハウス「屋根裏」を破壊し出入り禁止になったことや、文化祭ライブで全裸になり逮捕された事もある。
一方「ZELDA」は、1980年代から1990年代にかけて活躍していた日本のロックバンドで、メンバーが全員女性のガールズバンドの草分け的存在であり、女性グループとしてもっとも長い活動歴を持つことで、ギネスブックにも記載されている。リーダーの小嶋さちほを中心に、音楽ジャンルも多彩にこなし、パンク、ポップス、ファンク、ブラックミュージック、そしてルーツミュージックと実験的なものを含め取り組み、次世代バンドに影響を与えた。
こうした時代背景があり、高校に入るとジャズ&フュージョンから音楽的な嗜好がパンク&ニューウェーヴへと移り、1980年代的なパンク&ニューウェーヴのファッションや音楽や文化の特集を組むようになり、1985年には全ページにカラーグラビアを採用し、誌面は1980年代のポップカルチャーで埋め尽くされ、当時の若者のバイブルとしてもてはやされた「月刊・宝島」を勉強そっちのけで、貪るように読むようになっていた。
その「月刊・宝島」で京都特集が組まれてあり、我ながら「京都に行かねばなるまい」と思ったのである。「月刊・宝島」で紹介されていたバンドはほとんどが音楽の商業活動において、大手制作会社(メジャー)に所属しない会社、及びそのアーティストであるインディーズで、函館では手に入らなかった。そのため、京都に買い出しに行ったのである。実家のある奈良からは京都は近い。なぜか大阪にはインディーズを扱うレコード屋が少なかったのも京都行の目的の一つだった。当時、京都にはインディーズを扱っていた「詩の小路ビル」のレコード屋ユリナレコードとメディアショップがあった。
それからというもの、夏休み&冬休み&春休みには京都へ出かける頻度が異常に多くなっていった。もちろんメインの目的はレコード屋めぐりであるが、時代を反映した古着屋や雑貨屋なども京都には多く、当時全盛を誇っていたDCブランドを買う金はなかったがお洒落に気を使うようになっていた私には京都は打って付の町であった。
なぜ京都に惹かれていったのかを振り返って考えてみると、京都には流行に敏感な芸術系大学が多くあったからではないだろうか?今でこそ大阪LOVERSである私であるが、高校時代は完全に京都LOVERSであった。そして初めてのインディーズのレコードを買ったのは京都のメディアショップだった。そのレコードは、少年ナイフ同様、フロアレコードからアルバムデビューした女性4人組の「サボテン」のアルバムだ。
その後、私の音楽的嗜好は、函館で奇跡的に売っていた「フールズメイト」の影響で、80年代のUKハードコアパンクやポストパンク(ポジティヴ・パンク)、オルタナティヴ、インダストリアル・ミュージック、ニューウェーヴへと移っていく。 

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