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自転車で大阪をぶらり周遊(後編)

星野リゾートの建設状況をざっくり見たあと、日本橋のオタロードへ向かう。

日本橋は昔は電気街だったが、今はすっかりオタクの街になっている。そのあたり東京の秋葉原に似ているかもしれない。街を歩くとこういう看板が目に入る。
この辺はあまり用もないのでさらっと流し、道頓堀から御堂筋を通って船場のモダンビルを見に行く。途中、いくつかのタワーマンションの建設現場があったが、特に写真写りも良くなかったので見るだけにして、ひたすら北上する。まず目指したのは旧小西家住宅史料館。
薬問屋街の道修町に残る旧小西家住宅は、近代大阪の町家を集大成した和風建築(主屋、衣装蔵、二階蔵及び宅地が重要文化財に指定された)である。小西家は、初代儀助(ぎすけ)が安政3年(1856)、京都から大阪道修町に出て薬種業・小西儀助商店(現・コニシ株式会社)を創業したことに始まる商家で、現在の建物は明治36年(1903)から3年かけてつくられたもの。主屋裏には奥庭を挟んで衣装蔵および二階蔵がある。衣装蔵は明治45年(1912)の上棟で三階建の土蔵造。建築材も良材を使い、シンプルながらも各部屋や茶室などには凝った意匠や工夫の跡が見られる。居住部の台所の土間には、家族、従業員ら約50人の食事を賄った大きなかまどがあるとか。新社屋へ移転する前は、座敷に絨毯を敷き、机の上にはコンピューターが並ぶという事務所風景が見られたという。今では、かつて店舗として使用していた建物の前方が展示室となっており、映像コーナーでは企業のあゆみの紹介や、大阪市電が走った頃の風景の動画が映し出される。ほかにも、書院と仏間、苔むした中庭や高い吹き抜けのある台所も見学できる。なお、2階部分は従来通り非公開となっているが、夫人の間や子供部屋のほかに小部屋が多数あり、当時は家族や従業員、女中など50人近くが寝起きしていたと伝えられている。入館料は無料だが見学は完全予約制であり、申し込みはウェブサイトの専用フォームでのみ受け付けている。また、見学は毎週火曜日と金曜日のみとなっている。

旧小西家住宅史料館の隣には地上209m、54階建、商業複合・超高層タワーレジデンスのThe Kitahama(ザ・キタハマ)が建っており、そのコントラストがなかなかすごい。
旧小西家住宅史料館の次に向かったのは大阪市立愛珠幼稚園。
大阪市立愛珠幼稚園は1880年6月1日に開園した現存する幼稚園としては大阪府内では最も古い歴史をもち、また日本でも2番目に古い歴史をもつ。現存する木造の幼稚園園舎としては日本最古、また民間の手によって建てられた幼稚園としても日本最古となっている。淀屋橋の南方、船場のオフィス街の中に位置し、適塾跡に隣接している。園の敷地は江戸時代の銅座の跡地で、その記念碑が建つ。園舎は1999年11月に大阪市指定有形文化財に指定された。大阪市の有形文化財指定制度はこの年に始まったため、「指定第1号」のひとつともなっている。その後2007年には、岡山県岡山市の岡山市立旭東幼稚園旧園舎(1908年建築・1979年解体・1999年復元保存)とともに、幼稚園の園舎として日本で初めて国の重要文化財に指定された。

次に向かったのは吉兆高麗橋本店。
創業者・湯木貞一は神戸の料理屋「中現長」の息子であったが家を出て、1930年11月21日、大阪市西区新町にて「御鯛茶處吉兆」を開業した。「吉兆」とは、西宮神社や今宮戎神社などで毎年1月10日を挟んで前後3日間に行われる十日戎(とおかえびす)に授与される福笹につける子宝のことで、また福笹自体も吉兆笹と呼ばれており、店名はそれに由来する。湯木貞一と縁故のあった画家須磨対水により縁起を担いで付けられた。
日本料理には宮廷料理の系統である有職料理、大名の宴会料理である本膳料理、江戸時代に町人の宴会料理として確立した会席料理などがある。吉兆の料理は、献立や、建具や調度品などを一期一会その場の雰囲気や季節に応じて変える「室礼(しつらい)」に至るまで、茶懐石の影響を強く受けている。これは創始者の湯木貞一が茶道に造詣が深かったことに理由があり、貞一は後に自らの茶道具コレクションを基に湯木美術館を設立した。
現在、吉兆グループの料亭営業会社は株式会社本吉兆、株式会社神戸吉兆(本社の所在は大阪市)、株式会社京都吉兆、株式会社東京吉兆の4社からなり、各会社が株式会社吉兆から吉兆ブランド(屋号)を、一連のグループ不動産管理会社5社から店舗を借り受けて料亭の営業を行っている。
毎年、大阪の船場地区では「船場博覧会」行われていて、この「船場博覧会」の前夜祭として「吉兆」によるお餅つきが行われる。「吉兆お餅つき」は、行けば誰でもお雑煮がもらえるというわけではなく、数量が限定されている。そのため開催前に200~250名分の整理券が配られ、それをもらうために行列しなければならない。お餅つき会場は、吉兆本店の敷地内で行われ、見ているだけでなく、お餅つきに参加もできる。やります!と手をあげた、ちいさい子供から少し年を行った方まで男女問わず楽しそうに杵を振り上げて、人生を楽しもうという雰囲気の大阪人のノリの良さが伝わってくる。つきたてのお餅は、三つ葉が浮かぶ、丁寧にとられたお出汁に、ゆずの香りがふわっと漂うお雑煮に仕立てられ、参加者に無料で振舞われる。

北浜まで来たので、ついでに五代友厚公にご挨拶に向かう。ということで来たのは大阪取引所。元大阪証券取引所で、そのルーツは江戸時代に遡る。諸藩の蔵屋敷があった江戸時代の大坂の米穀取引所を起源に、五代友厚らが発起人となって設立された大阪株式取引所が前身である。なお、1730年(享保15年)に設立された堂島米会所で行われた帳簿上の差金の授受によって決済を行う「帳合米取引」が、世界で最初の公設の商品先物取引であると言われる。この伝統から、大阪株式取引所の草創期から帳合米取引をベースにした定期取引(および後の清算取引、現行法でいう先物取引(futures)の方法にあたる)が行われていた。旧大阪証券取引所時代から指数先物・オプション市場において重要な地位にあった。具体的には、日経225先物等、株価指数先物の日本における取引シェアは約60%を占め、同オプション取引においてはほぼ100%を占めていた。また、デリバティブ取引の売買高ランキング(2008年)では大証は世界15位であり、26位の東京金融取引所や33位の東京証券取引所などを抜いて日本では最も上位にあった。
1935年長谷部竹腰建築事務所の設計で大林組施工で建てられた旧ビルは取り壊されたが、円形のエントランスホールの外観のみ保存され、その表に五代友厚公の銅像が立っている。

五代友厚は、薩摩藩士であるが、明治期に大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った大阪経済界の重鎮の一人である。大阪取引所の関連で言えば、大阪証券取引所の前身、大阪株式取引所もまた、五代友厚の尽力によって設立された。政府は明治7年(1874年)10月、株式取引所条例を発布し、東京、大阪に各一か所の取引所を置くこととした。株式会社設立の気運が高まってきたことと、政府発行の公債が巨額にのぼっていたことが背景にある。しかしながら、この条例は当時の経済事情と相容れないものがあったので、友厚は有志と図ってその実施延期と改正とを要望、政府もこの意見を容れて根本的改正を行い、明治11年(1878年)5月、改めて株式取引所条例を発布した。
ぼちぼち帰ろうかと思って大阪城方面に向かうため、土佐堀通りを東に向かっていると、ビルの壁面に大久保利通・木戸孝允・板垣退助・伊藤博文・井上馨のレリーフがあった。よく見ると大阪会議開催の地とある。
大阪会議は、明治8年(1875年)2月11日に今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議であり、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立などの政府改革の要求が認められた。なかなか歴史を感じさせる。

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