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わたしたちは未来にいる

フロントガラスの下、インパネに並んだ計器類の端にある縦に伸びた隙間に、CDが直接入っていくのを見て、思わず
「うおお」
と、唸り声が出てしまった。
自宅のオーディオは本体から差し出される薄い皿にCDを乗せる仕組みだったので、このように円盤だけが宙に浮くようにして吸い込まれるさまは、わたしには近未来を舞台にした映画のように見えたからだ。
「なによ」
運転席でハンドルを握ったまま、娘が横目で問う。
「だってこういうの初めて見た。すごい。未来にいるみたい」
「今どきこんなの、古いくらいだよ」
再生された女性のかすれた呟きのような音楽の向こうで、娘は小さく笑う。
そうなのだろうか。

未来・今・古い。

わたしたちはどこに居るのだろうか、という奇妙な疑問が浮かぶ。
カメラにはフィルムが不要となり、対象を映す鮮やかな光る画面までついている。携帯電話は薄くコンパクトになり、誰もが彼方といつでも連絡できるようになった。
こんな世界をわたしたちはかつて、未来の世界として夢見ていたではないか。過去から見れば、わたしたちは充分、未来的な現在にいるわけだ。
だから、
「今、わたしたちは未来にいるんだよ」
そう呟き返すと、娘は一瞬訳がわからないという顔をしたけれど、そのままフロントガラスの向こうを見つめて運転しながら、わずかに肩でリズムをとり、音楽に合わせて小さくハミングした。初めて聴く曲、多分恋人の趣味なのだろう。

今、わたしたちは現在にいる。
今、わたしたちは過去から夢見られた未来にいる。
そうなのだろうか。
わたしたちは時間軸の最先端に立っていて、占われることを許さない自分の意思で変化させることが可能な未来の、蜘蛛の糸の直径ほどわずかな手前にいるのではないだろうか。

娘の運転する車の助手席で、そう気づいてしまった瞬間から、わたしは直立し少し前傾して、時間軸の鋒(きっさき)で時間を切り裂いて滑空している。正確に言えば存在を始めた最初から飛行は始まっていたのだが、認識していなかったということだ。
それは凄(すさ)まじい速度。両耳をかすめる時間はびゅうびゅうと音を立て、額(ひたい)はほぼ未来へ突っ込んでいる。

万物もわたしと一緒に進んでいる。
寿命の長いものはゆっくりとどっしりと飛行している。短命のものは、みるみるうちに時間に削りとられ、藻屑(もくず)となって過去へと飛び去る。
10年も飛んでいると音楽用CDなどは遥か後方に散り過去の遺物となり、振りかえると煌く小さな星のようにしか見えない。

過去へと方向転換することは出来ないが、ほぼ未来に突入している額の向きを少し変えることで、進む未来を選ぶことはできる。
とめどなくくり返される方向の微調整。しかし、どちらの方向がいずれ幸せになる未来なのかは、わからない。

あのドライヴの翌日、わたしはどちらに進めばよかったのか。
悪天候だから出かけるなと、もっと強く止めればよかったのか。
恋人に迎えにきてもらえと提案すればよかったのか。
それ以前に、車を持つことと運転することのリスクを一緒に考えれば。
未来を願いながら叶わない人生が娘自身の選択の結果で運命なのならば、そもそも授かることを望まなければ。

肌色を失って発見され過去へと飛び去る娘と共に、わたしの心臓ももぎ取られてしまったように感じる。この痛みの寿命は長く、わたしがある限りわたしと共にあるのだと思うと、呼吸が苦しくなる。
それなのに自ら時間軸から降り、あの出来事を忘れ、暖かい記憶の中に留まることをしないのは何故だろう。わたしと同じ悲しみを老母に味あわせたくないからだろうか。いや、それよりももっと根源的に、わたしの心とは別な場所に、エゴイスチックな生命力があるのかもしれない。

わたしは時間軸の鋒で時間を切り裂いて滑空している。
願わくばわたしの終わりには、前進しかしないこの時間軸の理(ことわり)から解放され、ループを描いてあのハミングが聞こえる場所に戻り、永遠に留まれますように。

さて、今回テーマにした小説は、かのジョージ・オーウェルの『1984』です。
読んだのはわたしが中学生の頃で、それ以来世の中が進むにつれ「オーウェルの予言したとうりに、人間は一日中広告を見るようになったな」とか思っていて、この物語を着想しました。
しかし『1984』の政治的側面とか、この小説がどのように世界を変えたかとかを考えるには至っておらず、恥ずかしくなって本文中から引き剥がしました。
大人になった今、改めて読み返してみたいと思っています。
そして、年齢と共に読み解きを変えてくれる不滅の本って、やっぱり人類の宝だな、と思いました。

終わり

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