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【紫陽花と太陽・中】第二話 一人旅

こちらはオリジナル長編小説の続きとなります。
登場人物などの簡単な内容は下のプロローグでも触れております。

小説は既に完結しておりまして、noteで一話ずつ公開していく予定です。
中巻の冒頭はやや暗いスタートとなりますが、よろしければお読みいただけると嬉しいです。



「おはよう」
「おはようございます」
「おはようございます」
 俺がリビングの奥の和室から起きてくると、遼介りょうすけくんとあずさちゃんはいつものように起きて忙しく朝食の準備をしていた。淡いクリーム色のエプロンを着た遼介くんと紺色のエプロンのあずさちゃん。いつも、二人。エプロンの下にはそれぞれの高校の制服を着ている。
 台所では手鍋で汁物がくつくつと煮えており、オムレツをフライパンで器用に作る傍らで食器の準備と片付けの洗い物をする、見事なチームワークが繰り広げられていた。
「あずささん、お味噌お願いできるかな」
「分かった」
 遼介くんがふっくらと仕上がったオムレツを四角い皿に取り出し、ケチャップを添えた。あずさちゃんの様子を見てから汁椀をよそいやすいように並べ、ごはんを盛り付けようとした辺りで、椿つばきちゃんが起きてきた。
「おはよう……」
「あ、おはよう、椿」
「あ、おはよう、椿ちゃん」
 二人同時に声をかけた。毎度のことながら、この二人のまるで双子のようなタイミングの良さに、思わず俺は吹き出してしまう。
「椿、まずはトイレに行こうか」
 遼介くんが椿ちゃんの手を取り、トイレへと促す。ふあぁと大きなあくびをしながら、椿ちゃんと遼介くんがトイレに消えていった。
 俺は洗面所で顔を洗い、仕事着に手早く着替える。今日身に付けるネクタイを選んで椅子の背もたれにかけておき、箸を並べる程度のお手伝いをした。

「お兄ちゃん、あご、どうしたの?」
 椿ちゃんがもぐもぐと朝食を食べながら、遼介くんに尋ねた。
「あぁ、これ?」
 遼介くんがあごに手をやりながら、絆創膏を貼らないとな、と呟いた。ひげを剃る時にうっかり切ってしまったらしい。
「ひげまじん」
 椿ちゃんが新しいあだ名を命名した。苦笑いをして遼介くんが受け流す。
 俺は思い出す。彼が、あれは一緒に暮らし始めてしばらく経った頃に神妙な顔をして俺に言った時のことを。
『ひろまささん、ひげの剃り方を教えてもらえませんか』
 ひげ? と俺は素っ頓狂な声を出してしまったが、そういえば彼は剃り方を誰かに聞ける環境ではなかったのだと思い直した。まだ柔らかいが確かに遠目でも目立ち始めてきたそれの剃り方を、俺は丁寧に教えた。聞いてきた時は硬い表情をしていた遼介くんが、少し安心したのかゆっくりと息を吐いていた。

 ◇

 大人三人を送り出し、小学生になって一人で登校できるようになった椿を見送り、僕もついさっきあずささんといってきますをして別れたけれど、僕の足取りは重かった。
 学校、めんどくさいな……。
 空を見上げると、プカプカと綿あめのような雲達が浮かんでいた。チチチ……と鳥のさえずりも聞こえて、春らしく暖かな散歩日和だと思った。
 とりあえず学校に向かってみる。あずささんとおそろいで色違いのリュックサックに、教科書やノート、お弁当が入っている。学ランを着た同じ生徒が一人、二人と増えて、同じ方向に歩いていく。
 バス停で停車中のバスからたくさんの生徒たちが降車してきた。なんとなく他の人と同じくらいのスピードで一人歩いていると、いろんな生徒たちの会話が耳に入ってくる。
 ……でさ、あの二組のナントカくんに告ったんだって! ワー、ウソー‼︎……
 ……部室の掃除、しないと汚いんだけど……
 ……今日、学食行かない? ちょっと愚痴聞いてよぉー……
 ……朝練、サボったら先輩にむちゃくちゃ怒られてさ……
 僕の足が止まった。
 くるりと反対側へと身体を向け、適当なところで脇道に入ってみた。迷子にだけはなりたくないのであまり変な道には手を出さず、とりあえず手近なところに公園があったので、これ幸いとベンチに腰掛けて、ぼんやりと空を眺めてみた。

 父の葬儀が終わって一週間ほど経っただろうか。
 リュックサックから水筒を取り出し、飲み頃のほうじ茶をがぶりと飲んだ。
 悲しみよりも、安堵の方が勝っていた。涙は、中学三年生の卒業式の日に枯れるほど出してしまったので、さすがにもう出なかった。在校生や先生たちから、ずっとおめでとうと祝われる卒業式は僕にとってちっとも嬉しい気持ちにならなかった。父さんは、まだ生きてはいたものの退院なんてできるはずもなく、誰も来ない卒業式になった。まぁ、それはいい。問題は、三年生の一年間は、僕にとっては何一つ面白いことはなかったということだった。つよしとあずささんと別々のクラスになってしまった。クラスからは僕は浮いていた。話すことが何もなかった。話しかけられたら話すけど、それでも会話が続かない。それで、ずっと本を読んでいた。
 卒業式の当日、いや、もう何ヶ月も前から、僕は笑うことがうまくできなかった。父さんの病気のことをあずささんと勉強し……それはもうたくさんの関係する本を読み漁り、治る見込みがないことも知った。受験勉強も頑張ったし、学力は少しずつ平均点より上に来るようにもなってきた。
 ……だけど、それが何だというのだろう。
 高校は、父さんを安心させるために受験するのだろうか? 話すこともできやしない父さんのために? 僕の人生が何のためにあるのか、途方に暮れた。

 卒業式の日、最後の記念写真を撮影する時に僕は逃げ出した。こっそりと一人いなくなったところで誰も分かりゃしない。僕は静かな教室の、三年生ではなく二年生の時の教室でぼうっと座っていた。涙が出そうだったけど出なかった。学外から賑やかな喧騒が聞こえてくる。ここで、僕が前、後ろにあずささんが座って、たくさん過ごした。剛もいて楽しかった。あずささんが心配しない頃を見計らって玄関に戻るつもりだった。
 少しして、あずささんが教室にひょっこり顔を出した。どうして二年生の教室にいると分かったのだろうか。エスパーか、センサーでも付いているのだろうか。
「どうして」
 僕は狼狽えた。また泣きそうになってしまう。出会ってから一体僕はあずささんの前で何度泣いたところを見せてしまっているのか。
 泣き虫だという自覚はあった。でもさすがに、剛以外の人にやたらと泣き顔を晒すのは恥ずかしいという分別は付いていたはずだ。
「探させちゃって、ごめん。帰ろうか」
「……一様に祝われるのも、考えものだな」
「え?」
「誰もが同じ気分ではないだろうに。だから、私は式典は苦手だ」
 僕は目を瞠った。
「お、怒らないの……?」
「怒る? 何を?」
「ぼ、僕は……せっかくの卒業式だけど、全然嬉しくないんだ。だから逃げてきちゃった」
「遼介の気持ちは遼介のものなのだから、それでいいのではないか?」
「!!!!!」
 涙腺が崩壊した。だーだーと僕の両目から涙が溢れ出た。
 あずささんがどんな表情をしていたのかは分からない。見えなかったから。
 夢中であずささんをかき抱いて、号泣した。
 父さんは入院していて卒業式には来なかった。姉たちも看病が忙しくて来れなかった。僕たち二人を見届ける大人は誰もいなかった。
 分かってはいるんだ。大人は仕事があって、父は闘病を頑張っていて、他の家庭のようにはいかないことを。嫌だとか困るとかの感情はない。寂しさは、どうしてもあったけれど。
 どうしてこんなに泣いたのか、分からなかった。
 誰も式に来なかったのが悲しいのか、父がもうすぐ死ぬことが怖かったのか、この先も剛やあずささんと別々の高校になってしまうのが不安だったのか。……それとも、あずささんが僕のことをきちんと見ていてくれて嬉しかったからなのか……。

 あごのケガがちょっと痛んだ。僕は手を触れてみた。
 僕は自分自身の身体の成長にも、途方に暮れていた。
 出会った時は同じくらいの身長だったのに、途中からどんどんあずささんを追い越し、今は見下ろすくらいになってしまった。最初は、あずささんが縮んだのかと思ったほどだった。
「あずささん、背、縮んだ?」
「そんなことあるわけないだろう」
 目を丸くして困った表情のあずささんが、それからふふと微笑んだ。長袖のシャツもズボンの丈も気が付いたら短くなっていて、新しい服を買わないといけなくなった。
 僕は大きくなりたくなかった。あずささんを怖がらせたあの男のような、威圧感のある長身にはなりたくなかった。その時は笑ってくれたので、僕はあずささんが怖がっていないと分かって安心した。
 声変わり程度ならまだマシだったのに、朝起きた時のパンツが汚れていることには心底困ってしまった。自分も父さんに続いて何かの病気かもしれない……と鬱々として数ヶ月。ひろまささんがこっそり渡してくれた男の子の第二次性徴の本を読んでようやく納得した。それでも、同じ部屋で隣り合って一緒に寝ている僕は、寝ている間に何か変なことを言っていないか、おかしな行動をしていないか、あずささんに対してものすごい気にするようになってしまった。

 最近全然笑えていない。
 僕はお茶をさらに飲んだ。
 椿の世話がだんだんと少なくなってきたら、今度は自分のことを振り返る時間ができてしまい、落ち込むことが増えてきた。……まったく、気持ちがちっとも晴れやしない。

 *  *  *

 学校をサボったことは秘密にした。
 ほとんどの時間を思考と読書に費やし、何食わぬ顔で適当な時間に帰宅した。
 あずささんを楽にしてあげたい一心で晩ごはんの支度を早めにとりかかる。干していた洗濯物をたたみ、家族それぞれの名前が書かれたカゴに入れておく。うちでは、乾いた洗濯物を畳むところまでは僕たちがするが、カゴから自分のタンスに入れるのは自分でやることになっている。
 家事を無心でする。まるで菩薩になった気分だ。

 姉二人とひろまささんが帰ってきた。僕とあずささん、椿は少し前に食べ始めていたところだった。大人たちを待ってから食事にすると、お腹が空きすぎて椿の機嫌が悪くなるのだ。
「重大発表があるわ」
 突然、桐華とうか姉が僕の前に立った。僕は小首を傾げた。
「旅にでも、出てらっしゃい」
「旅?」
 困惑した。隣のあずささんを見ると、同じくびっくりした顔をしていた。箸でつまんでいた味噌汁の人参が汁椀の中に落ちたので、ちょっと面白いと思った。
 いつも突飛な行動をする桐華姉の話によると、どうやら僕が最近元気がないので気分転換のために旅行をしてきたらどうか、ということだった。
 元気がない……って、身内が亡くなったのだから、当然じゃないだろうか。
「僕とあずささんが一緒に旅行に行ったら、家のごはんとかどうするの?」
「誰が二人で行って、って言ったのよ」
「違うの?」
「行ってきたら、というのは、遼介くん一人のつもりだったんだよ」
 最後にひろまささんが苦笑いをして僕に言った。
 パクリと白飯を一口食べた。
 旅行。一人で。
 ゆっくりと咀嚼してみる。飯と、言葉を。
「一人で旅行は、初めてかも」
 ウンウンと姉たちが頷いた。
「一人でどこかに出かけることも、初めてかも」
「桐華から、遼介くんはずっとお家のことを頑張っていると聞いていたからね」
 僕は穏やかに話すひろまささんを見た。
「もちろん旅行代や費用は僕たちが出すし、少しでも気が楽になればと思って考えたんだ。一週間は難しいけれど、数日、ゆっくりと羽を伸ばしてきてほしい」
 僕は白飯を黙々と食べながら、考えた。
 僕がいない数日、その間の家のことはあずささんがしなくてはいけない。
 そう思って、あずささんの方を向いた。
「遼介、家には私がいるし、いつも通りできると思うから、遠慮はするな」
 あずささんがそう言って、にこっと微笑みながらドンッと拳で自分の胸を叩いた。ちょっと痛そうな音がしたけれど、笑顔だし、それに僕の考えなんてもう何年も一緒に暮らしているせいで、全部分かってしまっている……。

 そんなわけで、僕は一人旅に出ることになった。

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