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汝、己の夏を取り戻せ

 5年前の写真に写る人たちが、マスクをしていなかった。そのことに、私は嫌悪感を抱いた。当たり前にしなければならないことを、やっていないなんて。けれど、マスクをしていない彼らは、何もおかしくない。5年前はコロナなんてなかったのだから。むしろマスクをしている今のほうが、異常事態なのだ。
 コロナが流行って、この世界は大きく変わってしまった、と誰もが言う。けれど私は、「変わってしまった」という表現にどうも居心地の悪さを感じていた。
 確かに、出来ないことは増えた。大人数での飲み会、ライブで推しの名前を叫ぶこと、海外旅行。それから、しなければならないことも増えた。外出時のマスク、店に入る前の検温、ソーシャル・ディスタンス。始めは違和感があったが、もうすっかり慣れてしまった。そんな風に、私たちの外側は、ゆっくりと、着実に新しくなった。それは確かに、変化と呼べるのかもしれない。では、内側は?

 日の落ちる時刻が遅くなった。
 梅雨が明け、凶悪的な日差しが差すようになった。
 あまりの暑さに耐えきれず、クーラーを付けた。
 ちゃくちゃくと、夏は私たちのもとへやって来る。
 けれど私の時間は、去年の3月で止まってしまったままだ。

 冷凍庫にアイスを常備するようになった。
 ノースリーブのワンピースを買った。
 サンダルを出してペディキュアを塗った。
 けれどわたしは、ひとり夏から取り残されたような気分だ。

 自粛期間が始まったあたりから少しずつ、自分のこころが壊死していくような心地だった。自粛をすることには、もうすっかり慣れた。それなのに、この言いようのない疲労感は何だ。息苦しさは何だ。私たちは、思っているよりたくさんの荷物を、背中に背負い込んでしまっているのかもしれない。
 言葉にするのは難しいが、なんとなく肌で感じる。時代の気分が、ひどく不機嫌だ。

 途中までの下書きを放っておいたら、夏どころかもう秋がやって来そう。私のところに夏が来たかどうかなんて、お構いなしに。時間の流れは速く、無慈悲だ。
 こんな時、いつか映画や音楽で聞いたフレーズが、日常にときめきを与えてくれる。

 「秋風が街に馴染んでゆくなかで、私まだ、昨日を生きていた。」
 「人生で大事なことは、人生で大事じゃないこと。」

 それで私は、決心した。今夜、劇を観に行こう。
 自分の夏を取り戻し、清々しい秋を迎えるために。

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