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私と世界の曖昧な境界線

2024.04.18
ペぎんの日記#18
「私と世界の曖昧な境界線」

今日は午後から雨が降った。
学校帰りのバスに乗る。
久しぶりのバス。
席に座り、イヤホンでお気に入りの音楽を聞きながら、何を見るでもなく窓の外を眺める。

なぜかふとイヤホンが気になる。こんな小さいものからどうやって音を流しているんだろう。
きっと苦労して小さなスピーカーを作った人がいたんだ。それを言ったらスマホだってとんでもない技術だ。私のスマホ一台に、どれだけの人の思いが詰まっているんだろうか。スマホから流れる音楽をつくった人だって、その音楽をサブスクで聴ける仕組みを作った人だって。バスのエンジン、バスの車体、バスが走る道路。それらをつくった人たち。そのつくった人を支えた人たち。バスの運転手さん。
彼ら彼女らが「バスに乗る私」を構成する。

いつもだったら、そういったモノ・ヒトは自分の外側にあるはずだった。あくまでも自分の周辺の、生きた背景だった事柄たち。
今日はなんだか、そういったものが自分の内側にあるように感じた。「私って色んな人たちで構成されてるんだな」って思った。
春特有の水っぽい閉塞感がそうさせたのかもしれない。閉塞感…というか、あったかくて安心して眠たくて、思考が自分の内側にひたすら進んでいく感覚?とにかくそういうものが私に「お前を構成する要素はお前じゃないものばかりだ」と迫ってくる。

少し怖くなった。もし私の生活から、ひとつずつ、ひとつずつ、ヒトやモノを引き算していったとき、私はどんな形で残るのだろうか。私から私以外の要素を引いていったとき、最後に残るものはなんだろうか。最後に残ったものは、それ単体で存在できるだろうか。最後まで残ったと思ったものが、最後の一つになった瞬間に消えてしまわないだろうか。

人間の身体の皮膚は、約1ヶ月で全てが入れ替わるらしい。他の細胞も、ほぼ4ヶ月で全てが入れ替わる。骨は総入れ替えに10年かかるらしいが、それでもやはり私のほとんどは半年後には今の私の要素をほぼ持っていないことになる。

私って何でできてるんだろう。

19世紀を生きた詩人・作家のオスカー・ワイルドはこう言った。

あなたが自分だと信じている人間は他人である。
思想は誰かの意見であり、
生活は模倣であり、
情熱だと思っているものは借り物だ。

オスカー・ワイルド

この言葉を以前メモしていて、それを思い出した。でももちろん、この言葉で不安がまとまったかと言うとそうではなくて。

自分は自分じゃない色々でできていて、そこが自分と世界の繋がりで。
その繋がりを離してしまえば、私は私でいられなくなる。私は世界と繋がらなくなったとしても私であるはずなのに。

私と世界はどこで区切られていて、私のどれが世界で、私のどれが私なんだろう。

バスの中が、心なしかいつもより空虚な空間に感じた。

あーあ、春のせいだ。こんなふうに、今まで簡単にやってのけてきたことを難しく感じてしまうのは。

ま、嫌いじゃないけどね。この感覚も、それをもたらすこの季節も。

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