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パンダ型の乗り物遊具を通して生まれた〝動き〟

3歳児クラス(年少)〜5歳児クラス(年長)までの異年齢児保育をしている園での、ある日の場面。この日は20名弱の子どもたちと近所の公園へ。3歳児クラスの子どもたちは、それまで行なっていた個の遊びから、だんだんとモノを介した小集団の遊びへと変化してきたように感じています。そして、その様子を眺めていてとても興味深い場面がありましたので、文章にまとめてみました。

※なお、トップ画像はnoteの「みんなのフォトギャラリー」より引用させていただいた類似の遊具の画像です。

パンダ型の乗り物の遊具を舞台に展開した一連の〝動き〟

〝動き〟が生まれた舞台は、公園にあったパンダ型の乗り物の遊具。子どもたちは誰と一緒に乗るかやり取りをしながら遊具を使っていました。

①この場面で遊具に乗っていたのは、2名の年少クラスのカナちゃんとリカちゃん(いずれも仮名)。リカちゃんの誘いでカナちゃんも遊具に乗ることにしました。

②そこへ同じく年少クラスのミユちゃん(仮名)がやってきて、パンダ型の遊具の鼻や頭の部分に砂を乗せ始めました。遊具に乗っていた2人はミユちゃんの行為を嫌がり、拒否する旨の言葉を投げかけます。それでもミユちゃんは、繰り返しパンダの鼻や頭に砂を乗せ続けたのでした。

③すると、パンダに乗っていたカナちゃんが、ミユちゃんに「パンダさん、もうお腹いっぱいだって」と伝えました。すなわちカナちゃんは、この遊具を実際のパンダに、そしてミユちゃんが乗せた砂を「ご飯」に見立てたのです。カナちゃんの言葉は、やんわりとミユちゃんの行為を拒否する形ではありました。けれど、これまでとは違った温かさを含んだニュアンスだったため、その場の空気感も少し変化したように感じました。

④ミユちゃんの隣に座って、この一連のやり取りを眺めていた年少クラスのユウちゃん(仮名)。順番が回ってきたため、カナちゃんと交代してパンダ型の乗り物の遊具に乗りました。

⑤再びミユちゃんはパンダの鼻や頭の部分に砂を乗せました。すると、遊具に乗っていたユウちゃんは「パンダさん、お腹空いてるみたい」とミユちゃんに声を掛けたのです。すなわち、ユウちゃんは、カナちゃんが生み出した新たな〝動き〟の流れを汲んで遊具を生命が宿る実際のパンダに、砂を「ご飯」に見立てた上で、ミユちゃんの行為を肯定し一連の〝動き〟の中に〝遊び〟として位置付けたのでした。

⑥ミユちゃんは嬉しかったのか、落ち葉で「お皿」を作って砂の「ご飯」を乗せて、パンダに繰り返し食べさせてあげました。ユウちゃんとみゆちゃんの間には温かな雰囲気が生まれていました。

いかがでしょうか。
何気ない日常の場面ではありますが、その中で私が大切にしている〝動き〟の要素が集約されているのです。

〝動き〟として捉える…とは?


大方の場合、この一連の出来事は〝点〟として捉えられて終わってしまうのだろうと思います。

例えば「公園で遊びました」「パンダの遊具で遊んでいました」といったようにのっぺりとした出来事としてまとめられてしまうか、⑤or⑥の部分が「点」として取り沙汰され「ユウちゃんが優しかったです」「ミユちゃんは想像力が豊かですね」などのように「個」の力や育ちとして集約されてしまうか(その背景にある全体の〝動き〟が捨象される)だと思います。


けれど、これを「パンダ型の乗り物の遊具で遊ぶ子どもたちの〝動き〟に、ミユちゃんの行為(遊具に砂を乗せる)が加わったことを契機として生まれた〝動き〟」として捉えることで、〝点〟として捉えるのでは見えなかった様々なものが見えてきます。例えば、

周囲の子どもたちの〝動き〟…拒否〜変化〜遊びの文脈に組み込む

ミユちゃん自身の〝動き〟…自分も乗りたかった?関係性への羨ましさ?といった思い〜砂を乗せる行為〜「パンダ」に「ご飯」をあげる

遊具の〝動き〟…ただの乗り物遊具〜生命を宿した「パンダ」

砂の〝動き〟…ただの砂〜それまでの遊びを邪魔するもの〜「パンダ」の「ご飯」〜葉っぱの「お皿」に乗せられた「ご飯」

などなど。

今回の出来事を、こうした新たな〝動き〟が、互いに複雑に関連し合いながら展開していった事象として捉える視点を私は大切にしています。

そして、その〝動き〟の中ではミユちゃんと他の子どもたちが結びついただけでなく、本来全く独立しているはずの「パンダ型の遊具」「砂」「落ち葉」といったようなモノたちまでも特異的な役割を発揮し、互いに結びついていることが明らかになります。

人だけでなく、それを取り巻くモノも同様、〝動き〟の中で動くのです。


したがって、ある織物の紋様は1本の糸だけを取り沙汰しても浮かび上がらないように、その中のどれか1つの要素を取り上げて「評価」するのは難しく、この一連の〝動き〟が「何」であるのかは、とりあえずの収束を迎えるまで待った上で各々が判断(それも唯一絶対のものではない)するものとして捉えるのが相応しいでしょう。


以前「遊び」という概念を使いたくないということを投稿しました。


今回の事例で言えば、この一連の〝動き〟を「遊び」と捉えるのか「紛争解決」と捉えるのか「対話」と捉えるのか「学び」と捉えるのか「発達」と捉えるのか「アート」と捉えるのか、それらを組み合わせ折衷的なスタンスを取るのか、そもそもこの〝動き〟自体を取るに足らないものとして記憶から消してしまうのかは人それぞれだと思います。

私個人としては、こういった〝動き〟が「何」であるかとパッケージ化・カテゴライズ化することに興味はありません


そうでなく、だからこそ異種混淆の〝動き〟そのもの自体を捉える理論的・実践的な観点を持ち、その視座から子どもたちの姿を捉えたいと思っています。そのことにより、〝点〟では捉えきれないダイナミックな〝動き〟として、子どもたちが・子どもたちと紡ぎ出す育ちや遊び、学びなどを捉え直したいと考えています。

まとめ〜アクターネットワーク理論おの出会い〜

最近、こんなことを考える中で「アクターネットワーク理論」に出会い、少しずつ文献を読み進めています。

まだまだ読み深めることができていませんが、アクターネットワーク理論と出会い、さらに視点が深まっていくように思います。

まだまだ理解が乏しいですが、ANT的な視点を、子どもたちが・子どもたちと生み出す場で生まれる〝動き〟を捉える理論として応用できたら、何か見えてくるものがありそうだなぁと思っています。

引き続き探究していきたいです。
あ〜、研究したい📖✨

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