障害者の命を救う意義はあるか。
みなさんはそう聞かれたら何て答えるだろうか。
せっかくなので少しだけ自分の答えを考えてみてから、これからの文章を読んで欲しい。
ここでいう「障害者」とは「知的レベルと運動機能が著しく低下した人」のことで、
「なんらかの障害を負っているが、自ら日常生活を送れている人」は含めないことにしたい。
聞いておいて申し訳ないけど、
この問題に即答できるのは、
この問題ついて普段から物凄くよく考察している人か、あまり考えていない人じゃないかなと思う。
まず「障害者だろうが人の命。救えるのなら救って当たり前。」と考える人がいるはず。
それを間違いだと切り捨てるつもりはないけど、2つ言いたいことがある。
1つ目は「尊厳死」という言葉もあるように、
「ただ長生きさせるためだけに過剰な医療を行うのはもうやめよう」
という流れにだいぶ前から医療現場はなっている、ということ。
「寝たりきりで医療機器に繋がれて生きながらえるくらいなら死を選ぶ」という患者の希望があればそれに従う。
ここ10-15年は「むやみな延命治療は行わない」のが主流だ。
だから「救える命を皆救う」というのは、必ずしも現代の医療倫理観にはそぐわない可能性がある。
このことは既に多くの人が知っていることかもしれない。
2つ目は、これこそ重要だと思うけど、「障害者にかかる医療費は莫大であり、そのお金はほぼ国が賄っている」という事実。
命を救うのに、何のコストもかからなければそもそも今回の問題は生じない。
そりゃ全員救えばいい。
正直、1つ目の話だって背景には「全員を延命してたらお金がかかりすぎる」から「尊厳死」といういかにもな名前をつけて正当化した、という面がある。
でも実際には、障害者に使用する医療機器(人工呼吸器など)にはレンタル料やメンテナンスなど毎月多額のコストがかかる。
それだけじゃない。
何より最も大きなコストは「人」だ。
僕はこれまでに多くの障害者達を診療してきたけど、
例えばもともと健康な人が肺炎になるのと、障害者が肺炎になるのとでは治療する手間が10倍くらい違う。
障害者は心肺機能に余力がない人が多く、油断しているとあっという間に病気に命を持っていかれてしまう。
だから、「障害者の肺炎」が入院したときはずっと側に張り付いて土日も返上するなんてことはよくある話だ。
でも当の本人は知的レベルが著しく低下しているからこっちがどんなに努力して肺炎を治そうと意識はないし多分何も感じていない。
一方で健康な人たちの肺炎は障害者よりも少ない手間で治すことができる。
治療がうまくいけば本人は喜び、感謝もされる。
ここで改めて聞きたい。
「障害者の命を救う意義はあるか。」
僕には自分の時間の多くを捧げて障害者の命を救った経験が少なからずある。(もちろん色んな医療者達のサポートを受けた上で。)
でもだからこそ、疑問を抱かずにはいられなかった。
「自分が生きているのかもよく分かっていない人」に他の患者の何倍もの時間とお金を費やして救うことに一体どれだけの意味があるんだ??
むしろ生き延びることで「コスト」はこれからもかかることになるし。。これって一体誰が幸せなんだろう。
それに日本は保険制度や助成金制度が手厚い分、障害者にお金を気にすることなく医療を行える。
もっと保険制度を厳しくてもいいんじゃないか?日本甘すぎない?
連日夜遅くまで障害者の対応を迫られている中で、そんな風に思った。
障害者の治療に従事する傍らで、心には人には言えないようなそんな不満が募っていた。
ここまでだと障害者を救う必要はないと言いたいように思われるかもしれない。
でも、今回の疑問に対する僕の答えは「Yes」だ。
救う意義は「ある」と思ってる。
その答えにたどり着いたエピソードを話して終わろうと思う。
・訪問診療で見た「母の姿」
あるとき僕は障害者の「訪問診療」を行う診療所にいたことがある。
訪問診療とは、『身体的な理由などにより通院困難な人達を対象に、定期的に医療者が自宅を訪問して診療する』こと。
その診療所にいたとき車で家を訪問し、障害者らを診察して回った。
様々な年齢(0歳から成人まで)の障害者の診察を行った。
どの家にも共通して見えたのは、
障害者にほぼ毎日付きっきりで献身的に世話をする母の姿だった。
母はその子が生まれてから毎日のように痰の吸引や食事の介助、着替え、トイレの世話等を行う。
もちろん1日のうちのある時間帯を施設に預けたり、訪問看護の手助けを受けてはいるが、完全な休みはほぼない。
さまざまな医療機器を使っている分、
通常の介護よりもより緊張感を持って様子を見守る必要もある。
ある家では障害児の子から目が離せないため、自分がトイレに行くときにはその子を抱きかかえて用を足すと言っている母もいた。
自分が産んだ障害のある子に自分の人生の大半を捧げてるのってキツイだろうな。すごいけど、なんか可哀想だ。。
母達の姿を見て、そう思った。
そんなある日、1歳の障害児の家を訪問した。
少し古びたマンションのインターホンを鳴らすと、中から母が笑顔で出迎えてくれた。
年齢は僕と同い年くらいだった。
中に案内されて廊下を進むと、
1LDKの決して広くはない室内の4畳程の1室に1歳を迎えたばかりのその子がいた。
その周りにはたくさんのおもちゃや写真のアルバムなどが置いてある。
その子は部屋の真ん中で呼吸器に繋がれた状態で仰向けに寝ていた。
通常1歳の子であれば、一人歩きを始め、「ママ」などの言葉を話し始める。こちらの声かけに対しても大分理解するようになる。
しかし寝たきりのその子は、目は開いているが視線は合わず、声や身振りで意思表示する素振りは全く見られなかった。
障害児の中でもかなり重度だった。
母がその子の隣に腰掛け、最近の本人の様子を細かく語り出す。
その後に診察を行い、特に新たな問題がないことを確認した。
診察を終える間際に、
「最後に何かお母さんの方から聞いておきたいことはありますか?」と尋ねた。
すると、
「虫歯とかって親から子供にうつるんでしたっけ?」
と躊躇いがちに母が聞いてきた。
質問の意図がよく分からず、
「まあそういうこともありますけど、、、何かありました?」
と聞き返す。
すると母が少し恥ずかしそうに
「いやうちの子があまりに可愛いので、何度もチューしちゃって。虫歯うつったら困るなって思ったんです。」
と答えた。
自分の子を愛おしく見つめながら照れ笑いをするその表情は幸せに満ちていた。
一瞬何を言っているのか理解ができなかった。
その母の表情と言葉は僕にとって晴天の霹靂だった。
てっきり障害者の母や家族は皆、
その育児と介護に追われるあまり、
「なんで自分達だけこんな不幸な目に合うんだ」と世の中を恨んだり、嘆いたりしているのかと思っていた。
そこまでではなくとも、
「障害者の家族」と「幸せ」というワードを結びつけることがどうしてもできていなかった。
しかし、少なくともその母は自分の子の世話についての不平不満を嘆く姿や素振りは見られなかった。
それどころか我が子の育児を心から楽しんでいて、その笑顔は健康な子を育てる母と何も変わらなかった。
母の愛の深さを侮っていた。
もちろん、そういったことを受け入れられず育児・介護をドロップアウトする人やそれがきっかけで離婚してしまう夫婦もいる。
それは事実だし、親の気持ちを想像すると責められないとも思う。
でもそういう人達ばかりではない。
健康な子を育てるより遥かに多くの苦労や辛さがある中でも、より多くの幸せを見出す人もいる。
これまでの訪問先の母達に対して、
勝手に「哀れみ」のフィルターを通して見てた自分が恥ずかしくなった。
障害者の家族を「不幸」だと決めつけ、嘆いていた自分の傲慢さに気付かされた。
この母からその子を奪うことはできない
と思った。
それ以来「障害者を救う意義はないのではないか」という疑問は消えた。
「障害者」の命を救うことによる障害者自身の幸せは正直今もよく分からない。もしかするとそんなのはないのかもしれない。
それでも「障害者」を救うことが、「その周囲の人たち」を救うことに繋がる。
であれば障害者を救う意義はある、と僕は思った。
そう考えるようになってから、
障害者の母達の見方も、気持ちの寄り添い方も自分の中で大きく変化した。
以上が「障害者を救うことの意義があるか」ということに対する僕なりの答えだ。
僕の意見に賛同するかどうかは置いといて、
今回の話で「障害者」や「命」について考えるきっかけになってもらえたら嬉しい。
最後までお付き合いありがとう。
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