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「他者危害の原則」と自殺権

 J.S.ミルの唱える「他者危害の原則」において、他人を不快にさせるのみで危害を加える程でもない行為はこの原則に当てはまらない、ということがどうも引っ掛かった。また、この原則から導き出される考え方として「愚行権」なるものがあるらしい。喫煙に代表されるような自らの身体に有毒な行為であっても、他に配慮し害を与えなければその行為を行使する権利があるというものである。しかし、本当に愚行権を容認してしまってもよいのだろうか。そもそも、他者危害の原則は現実に即した合理的原則なのだろうか。
 まず始めに、他者を不快にさせる行為が他者に危害を与えていないという解釈を一度吟味する必要があるだろう。例えば通勤ラッシュでない時間帯の電車において、床に座り込んだ成人男性がいたとしよう。車内は非常に空いており、通行の妨げになるような位置に彼は座っていないということを前提とする。この場合、彼は同列車に乗り込んだ私に対して何ら危害を加えていないので、「他者危害の原則」に即するならば、私ないし公権力に干渉されるべきではないという判断が下される。
 果たして諸君はこの審判に納得がいくだろうか。どうも腑に落ちないと呟く者が多いと予想する。その場面に遭遇したならば車両を移す人も少なからずいるだろう。実際、現代では駅係員による注意喚起、当該人物の排除といった実力行使が発生しかねない。
 そもそもミルが生きた時代は19世紀であり、この頃はデカルトの唱えた心身二元論が依然として優勢であった。すなわち、精神は思惟を本質とし、身体は延長を本質として相互に独立して依存しあわないものものであるという感覚が多勢であったのだ。ここにおいて、ミルは危害を被りうるものとして身体のみを挙げるに尽き、精神的害といった発想には露も至らないのである。(精神と身体の二者が両義的なものであるという考えに至るためには、メルロ=ポンティの生まれる20世紀まで待たねばならない)。ゆえに「他者危害の原則」というものは当時の常識を色濃く残したものであり、現代版にリメイクするならば原則の範疇を精神的危害にまで敷衍してしかるべきなのではないだろうか。
 また「愚行権」という存在さえ疑わしいこの権利を認めたしまったならば次のような不合理が生じる。それは “自殺” の容認である。飛び降りなどによって公共あるいは通行人への危害を加えることは例の原則に合致しているだろうが、富士の樹海での首吊りなどはこの通りではない。著名な哲学者の頭脳を通してもなお、自殺が許諾されてしまうのはやはりいただけない。自殺を絶対悪として扱うつもりは毛頭ないが、しかし絶対善であり推奨されるべき行動でないことは自明であろう。
 自ら命を絶ち、意識のない身体を現世に置き去りにした場合、その処理等に費やされる他人の労力、親族による諸々への金銭は十分危害として捉えうるし、関わってきた他人の心に “傷” や “穴” を作ってしまうこと、もはやこれも立派な危害行為なのではないだろうか。

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