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父と子のパピコ【甲斐大和→松本 120km vol.02】

二人の篠田美代子。
一人は去年、中学時代の同窓会で二十五年ぶりに再会した篠田美代子。もう一人は遠い記憶の中、中学二年の夏に会った篠田美代子だった。

「やっぱり坂上君だ。びっくりした!」
「篠田さん……」
「どうしたの? こんなところで」
「里帰りというか、親戚の処へ行く途中です」
「あ、そうなんだ。去年会ったとき時々自転車でこっちに来てるって言ってたものね」
彼女の表情が驚きからやわらかい笑顔になった。
「なんだかキョロキョロしてた?」
「コンビニがないか探していたんです」
こっちはまだ気が動転していて、しゃべりながら腕が意味不明に動いた。
(落ち着け)
自分にそう言い聞かせて小さく深呼吸をした。そして話をしている篠田美代子のとなりの、もう一人の篠田美代子を見た。
(ああ、そうか)
この少女は篠田美代子の娘だ。同窓会で彼女に写真を見せてもらったことを思い出した。何も言われなければ中学のときの彼女の写真だと思ってしまうほど、娘は彼女にそっくりだった。
「そちらは息子さん?」
篠田美代子は首を伸ばして私の斜め後ろに視線を向けた。健太郎が一緒にいることを一瞬忘れていた。
「あ、息子の健太郎です。健太郎、こちら、父さんの中学時代の同級生の篠田さん」
健太郎はヘルメットを脱いでぺこりとお辞儀をした。
「なっちゃんもご挨拶して」
彼女は促すように少女の背中に手を添えた。
「篠田夏希です。こんにちは」
お辞儀をすると頭の両側で結んだ長い髪が揺れた。横縞のスモックのような丈の長いシャツを着て七分丈の黒いスパッツを履いている。体つきはほっそりとしていて男の子のようだ。中学時代の篠田美代子も同じように髪を頭の両側で結んでいた。
「こんにちは、夏希ちゃん」
娘と目が合った。こちらを見つめるまなざしに強さがある。どちらかと言えば内気な女の子だった母親より気が強そうだ。頷きながら笑みを返すと一瞬目を見開いたあと彼女も柔和な笑顔になった。本当に昔の彼女に瓜二つだ。

「まさかと思ったけど、びっくりしたわ」
篠田美代子は髪を肩の辺りで片側に束ね、青いTシャツに白いカーデガンを羽織り細身のジーンズを履いていた。彼女はもう一度私の顔を見ると、昔と同じように少し首を傾げて静かに微笑んだ。
篠田美代子と娘の傍らに二台の自転車が立てかけてあった。内装式の変速機の付いた白いフレームのクロスバイク。ストレートハンドルの前に籐のカゴが付いている。もう一台は水色のフレームの同じような雰囲気のジュニア用の自転車だ。
「これ、私の自転車よ」
自転車に目をやった私の視線に気がついて彼女が言った。
「そうなんだ」
「意外そうな顔をしてる」
「うん、ほら、あの坂……」
「結婚を機に実家は出たのよ。今はこの近くに住んでるの。でもこの自転車で時々実家まで行くのよ。最初は途中から押していたんだけど、今ではちゃんとあの坂を登れるようになったの」
「それはすごいな」
「中学の時に坂上君に自転車は乗らないのって聞かれてからずっと頭の片隅にあったのよ。もっと早く乗ってみればよかった。今は市内はどこでも自転車で行くわ」
篠田美代子はハンドルグリップに触れながらそう言って笑った。

中学の同級生と言っても私は二年になる春に転校してしまったので、篠田美代子とクラスメートだったのは一年だけだ。中学一年の教室で彼女は窓際の前から五番目の席、その右斜め後ろが私の席だった。なにがきっかけだったかわからない。私はいつの間にか彼女のことをいつも意識するようになっていた。朝、教室に入ると真っ先に彼女の姿を探した。授業中も気がつくと黒板を見て熱心にノートをとる彼女の横顔を斜め後ろから眺めていた。
「坂上、今日の天気は確かに教室よりも外で過ごしたほうがいい天気だが、だからと言って授業中に外ばかり眺めてるな」
教師からよくそんなふうに怒られた。眺めていたのは外の景色ではないことを気がつかれなかったか、どきっとして顔が赤くなった。校庭の緑と遠くに見える山々。そんな景色を背景に彼女の横顔をずっと眺めていた。
一学期は会話らしい会話をすることもなかったが、夏休みが終わって二学期が始まった頃、ほんの少しだけ彼女との距離が近づいた。

市内で大きな病院を経営している彼女の家は松本の街を見下ろす高台の一番上にあった。高台の下から彼女の家までは真っ直ぐ続く長い坂だ。私の家はその坂の途中にあった。
学校からの帰り、その坂を自転車で登っていると少し前を彼女が歩いているのを見つけた。素知らぬ顔で追い抜くか、声をかけて通り過ぎるか、頭の中をいろいろな思いが百万回交錯した。私は意を決して彼女のすぐ後ろまで行き、自転車を降りて押しながら声をかけた。
「篠田さん」
「あ、坂上君」
「珍しいね」
「え? なにが?」
「いつも迎えにきてもらっていたのに」
「ああ、そういうこと」
彼女は少し首を傾げてにっこり笑った。
「今日はお母さんが用事があって。だから久しぶりに歩いて帰ることにしたの」
彼女はいつも朝は父親が、帰りは母親がクルマで学校まで送り迎えをしていた。
「坂上君はいつも自転車だね」
「自転車なら学校まですぐだよ。篠田さんも自転車で通えばいいのに」
「無理無理。行きはいいけど、帰りはこんな坂、私には自転車じゃ登れないよ」
電動アシスト自転車なんてなかった時代だ。確かにこの坂の上まで彼女が自転車で上るのは困難なことに思えた。
「それに、うちは自転車禁止なの。危ないからだめだって」
「そうなんだ」
そんな会話をしているうちに、私の家の前に着いてしまった。
「僕の家はここだから」
「知ってるわ。朝、この家から坂上君が出てくるのを見たことあるから」
私はびっくりした。彼女が自分のことを教室以外の場所で見ていたなんて思いもよらなかった。
「朝、お父さんのクルマでここを通るとき、何度か見たよ」
こちらが驚いた顔をしたのがおかしかったのか、彼女はくすくす笑っていた。
知らぬ間に彼女に目撃されていたと知って私は赤面した。
「今度見かけたら、窓を開けて『おはよう』って言うね」
そう言い残して坂を登っていく彼女は、途中で一度振り返り小さく手を振った。

(つづく)

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