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vol.2「いつか自転車で」自転車人2013年夏号

 山と渓谷社『自転車人』2013年夏号掲載の巻頭コラムです。こちらのコラムについての解説はマガジンページに。

「夏はただ単なる季節ではない。それは心の状態だ」
 憶えている方もいるだろうか。これは片岡義男氏の初期の大ヒット小説「彼のオートバイ、彼女の島」(1977年発行)の単行本の表紙に書かれたコピーだ。片岡義男氏が昔カリフォルニアで見たサーフィン映画のナレーションの一節だという。その英語のナレーションを日本語としてこの言葉に置き換えたのは彼自身であろう。この作品自体も素晴らしい小説だが、「夏」というと続けてこのコピーが出てきてしまうほど、この言葉は僕にとって印象的な「夏の定義」だ。そう、夏は単なる季節ではない。夏がただ蒸し暑い一年の四分の一になってしまった時、それはその人の中のなにかが終わってしまった時だろう。梅雨が明け、一段とパワーアップした日射しを浴びると今でも僕は胸が騒ぐ。
 夏は暑くて乗る気にならないという自転車乗りも多いけれど、この季節に走ることが僕は大好きだ。他の季節のように装備やウェアで迷うこともない。半袖ジャージにレーサーパンツ。喉が渇けば水を飲み、時には頭から水を被り、汗を滝のようにかき、ただひたすらペダルを踏む。夕立に出会ったらずぶ濡れなるだけだ。そんな夏の迷いのなさ、潔さが好きだ。

 夏を舞台にした僕が大好きな作品がもうひとつある。細田守監督の「サマーウォーズ」(2009年公開)というアニメ作品だ。
 信州・上田の旧家の武家屋敷とOZ(オズ)という巨大なインターネット上の仮想空間を舞台に、数学が得意な主人公の高校生・健二と、先輩であるヒロイン・夏希、そして夏希の親戚である旧家の大家族の人たちが、電脳空間を乗っ取ろうとする人工知能と、それに伴って起こる現実世界での混乱に立ち向かうストーリーだ。
 細田監督の前作「時をかける少女」では自転車は重要な小道具として登場したが、この作品では自転車が登場するシーンはごく僅かだ。しかし冒頭、ほんの一瞬映し出される夏希が自転車で全力疾走するシーンは、彼女のキャラクターとこれから繰り広げられる波乱のストーリーを予感させる。
 大ヒットした「時をかける少女」に続いて、高校生を主人公にした作品を作ったことで、この映画の公開時、とある記事でインタビュアーが細田監督に「監督はきっといい高校時代を送られたのですね?」と訊いたことがある。その時の彼の答えが印象に残っている。

 「いい高校時代を送っていたら、わざわざこんな映画作りません」

 この答えを読んだ時に「ああ、この作品は彼が新しく作った『高校生活の思い出』なのだ」と僕は思った。
 「サマーウォーズ」の舞台となった上田には細田監督の奥さんの実家があり、旧家の大家族は奥さんの親戚たちがモデルだそうだ。自身が一人っ子で育った細田監督にとって結婚を契機とした大家族との結びつきは新しい体験だっただろう。そんな現実の新しい体験と、現実にはなかった自分の高校時代への想いが結びついて「新しいけれど懐かしい思い出」となる。そんな現実と過去と幻想のようなものが融合する体験に、僕は自転車に乗ると出会うのだ。

 東京生まれ東京育ちの僕には、いわゆる故郷という意味で帰る田舎はない。それでも東京を遠く離れて、見知らぬ景色の中を走っている時に「懐かしいな」と感じることが度々ある。「初めて来たのに初めてのような感じがしない」という既視感とも微妙に違う感覚だ。多分、自分が手にできなかった思い出をやっと手にした、そんな感覚なのかもしれない。

 数年前の夏の終わりに東京から山形県の酒田まで輪行を挟みながら走ったことがある。酒田は義父の故郷であり遠縁の親戚がいる。途中、通りかかった学校の前で脚をとめた。休日の学校。人気のない校舎に、どこかで練習中のブラスバンドの奏でる音楽がかすかに響いている。ポツリポツリと数台の自転車が置いてある駐輪場。自転車の前かごに鞄を入れ帰り支度をしているセーラー服姿の女の子…。
 僕は中学、高校とも男子校だったし自転車通学をしたこともない。だからそんなシーンは僕の現実の思い出にはない。でもその景色の前でいつか見たシーンのような懐かしい気持ちになった。
 現実にはなかった光景を、今現実にサドルの上で眺め、あたかも思い出のシーンに出会ったような懐かしい気持ちになる。それはいつか見た映画のワンシーンかもしれないし、かつて読んだ小説の中で描かれていた風景かもしれない。現実には体験することがなかった、言い換えれば手に入れることがなかった思い出。そんな現実にはなかった思い出を、今新たな思い出として体験する。僕はこれを「新しくて懐かしい思い出」と呼んでいる。自転車はそんな体験の「触媒」になる。自転車ってなんて不思議なノリモノなんだろう。

 この酒田行きの自転車旅行は僕の自転車生活のターニングポイントになった。四十歳を過ぎてからロードバイクに出戻り、ロングライドイベントやブルベで長い距離を走ってきた。そうやって長い長い距離を自転車で走ってきたのは、そんな「新しくて懐かしい思い出」に沢山出会うためだったのだと、この自転車旅行で自覚したのだ。右手に最上川、左手は遙か彼方まで水田がつながる景色の真ん中を走りながら、すとんと腑に落ちるように自覚したその想いを抱いて酒田まで走った。前回のコラムでも書いたが、僕がなにもない普通の田舎町を走るのが好きなのは、そんな理由だ。

 どこか行ってみたい場所があるなら、この夏、思い切って自転車で行ってみるといい。久しぶりに会いたい人がいるならば、その人がいる場所まで走ってみよう。もちろん里帰りでもいい。そしてその場所が遠ければ遠いほどきっといい。「新しくて懐かしい思い出」に出会うために、この夏、また僕も走るつもりだ。

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