郷土史と絵画 その参・塩山
こんにちは。今回は山梨県甲州市は塩山という地について書いてみたいと思います。
いつもながら、至らなさ、思いついたことを羅列するまとまりの無さはご容赦を。(お約束定型分)
甲州市塩山。
新宿から中央線特急で1時間半ほど。武田信玄公の菩提寺である恵林寺のお膝元であり、笛吹川が流れ、ブドウに桃に果物が名産品で、温泉も湧いていますね。
甲州市にまとまる前は、塩山市。それより前は塩山町。さらに昔は東山梨郡松里村、下柚木村…などなどに分かれていました。
↓昭和初期と見られる、塩山駅前の写真資料
↑こちらは大正および明治頃の塩山。鉱泉サイダーの幟が気になりますね。
塩山市は豪農の多い地域で、庄屋屋敷は代表される「三五壮」に見られるように、GHQや日立造船社主など、持ち主を遷りながら再利用されてきました。農業もさることながら、養蚕なども盛んだったようです。
その中でも、塩山三日市場(旧・松里村)について少し読んだ、郷土資料の内容などを。
塩山三日市場は先述した恵林寺を有する場所。山梨の第一社である浅間社もあります。江戸の頃、松里村より昔は三日市場村と言いましたが、一つの地域でも内部自治は三日市場と乙川戸に分かれていたそうです。それぞれの地区に取り仕切る名主がおり、名主、長百姓、百姓代の村役三役は交代制だったと資料に書かれています。道祖神祭の署名欄には、村役三役の名前が書かれていました。(1600年代の郷土史より)
あとは、乙川戸は笛吹川の水を汲み上げる場所だったとのこと。
実はうちの母方祖父母が塩山出身なのですが、「おっかーど」という地名をよく口にしていました。何処のことかよく分かっていませんでしたが、今にして思えば「乙川戸」のことですね。地元の人はそんなふうに呼んでいたのでしょうか。
他に、「松里のむかしばなし」という資料も少々読みました。塩山下柚木に住む人たちの起源のような伝説も書かれていました。
武田時代、雁坂口の警備にあたっていた地侍がそのまま下柚木に住むようになったという記述です。(下柚木の七郷) この伝説には諸説あり、黒川金山から降りてきた人たちが住うのだと説く文献も見られます。事実、下柚木には金山宮もありました。↓
いずれにしろ伝承の域を出ず、はっきりしたことは言えませんね。
山梨の祖父母から繋がる戸籍などもとってみましたが、まぁものすごく遡った戸籍が出てくる出てくる…。東京の戸籍をとったときに3代前までしかとれなかったのですが、山梨はなんと江戸時代、1800年初頭のものが取得でき、驚きました。都会と違い、廃棄が進んでないのですね。これほど遡れると、峡中家歴録につなげて自分のご先祖様を探せるほどでした。
国会図書館で取得した、峡中家歴録(サンプル)↓
これは個人的な考えになってしまいますが、山梨の人の県民性でしょうか。真面目でキッチリしていて、堅いイメージがあります。祖父母がそうだったから偏って考えてるかもしれませんが、私の中で山梨はそういう独特の硬さを持ったものでした。
一方の私は、大雑把でだらしなくてお調子者で頼りなくて…。私にも山梨の祖父母の血が流れてるはずなんですが、何だか山梨が遠く感じられたりします。実際に訪れたこともないですしね。
そんな複雑な気持ちを、山梨への気持ちを絵に残そう!ということで、塩山の油彩画を描きました。F50キャンバスの大作です。
塩山は、果たして私をどういう目で見ているだろうか? 交わらざる異分子として? それとも、懐かしき血を分けた仲間として?
いつかこの地を訪れて、改めて問うてみたいものですね。温泉旅行がてら。
駄文ですが、お読みいただきありがとうございました。
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