「クロイツェル・ソナタ」レフ・トルストイ著。

 トルストイの著書を未だ読んだことがなかったので、ひとつ読んでみた。
 この著書は、ポズヌィシェフという病的な外見の男の独白で、話の半分以上が占められている。独白がずっとと続くので、途中単調に感じ飽きが来るが、終盤ミステリーのように、何が起こったのかに興味がそそられて、一挙に読み進むことが出来た。
 ポズヌィシェフは、自分の妻に対する思いの回想を、すべての男性あるいは人類に当て嵌めて、男は欲望の塊であるかのようなことを言う。一種のフェミニズムにもとれなくもないが、女性が男性を誘惑する現実に関しても、女性の非を唱える。人類の目的が、清らかな愛であることを実践するためには、性欲は安全弁であるとして、性欲がなくなる日に、人類の目的が達成されるというような考え方をしている。
 一瞬、トルストイ自身の考え方を、ポズヌィシェフに代弁させているだけのように思えたが、ポズヌィシェフは、妻を殺すに至ったかなり偏屈で奇怪な性格の持ち主であり、作者からみても偏った思想を持っていたのではないかと思われる。
 ポズヌィシェフが妻を殺したのは、バイオリン弾きのトルハチェフスキーとの浮気現場を見たからで、その嫉妬に駆られて殺した。しかも後悔した。この後悔にはおおまかに二つの要素があって、一つは妻への愛着、一つは殺人の罪悪感、である。前者において、僕はポズヌィシェフは夫婦げんかばかりしていたが、実は妻を必要としていて、不器用だが愛してもいたのではないかと思った。しかし、愛というものをもっと聖正な美しいものとする人は、そのようなことがないと言うだろう。ポズヌィシェフ自身も、愛について肉欲でしかないと言っているが、それは彼の自我の未発達なところだろう。人間全体としては、喧嘩を繰り返しながら、肉欲の対象としてではなく、妻を精神的にも愛していたに違いないと思うのである。なぜなら、若いときに放蕩していたおりには、不倫相手にはそのような独占欲が湧かなかっただろうに、妻に対してはほかの男に譲りたくなかったからである。肉欲の満足だけであれば、妻をトルハチェフスキーと共有しても良かったのである。
 その実、妻とトルハチェフスキーの浮気が本当かどうかは判らない。しかし、夜中にほかの男と会うこと自体が、確かに浮気じみたことであり、殺すのは違うにしても、妻を疑わしく思うのは仕方の無いことなのかも知れない。しかし、ポズヌィシェフは妻を殺してしまうのだ。回想では、憎しみの怒りの爆発に快感を覚えたようなことが書かれているが、しかし殺人に至るまでの心境が、かなりの思い切りを以て変化したように書かれていて、そこは非現実を現実にしたようなありえない創作的心理描写だったのかも知れない。しかし、殺人を犯すためのかなり高い壁を飛び越えた。
 クロイツェル・ソナタ自体に関しては、男女を誘惑して不倫に駆らせるような音楽と書かれていて、妻がトルハチェフスキーと浮気したのは音楽の所為だとしてあるが、それはむしろポズヌィシェフの妻への思慕から来た善意的解釈なのかも知れない。いずれにせよ、素の女性に対して、男性の欲望を満たす玩具として躾けられる現状を憂い、好意的に書かれているようなのは、たぶんポズヌィシェフの妻に対する愛情の表れのような気がする。ポズヌィシェフは、不器用ながら女性としての妻を愛していたのではないだろうか。
 愛とは何か、さまざまに考えさせられる作品であった。

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