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「夏の花」原民喜著。

 世界で戦争が起きている昨今、原爆を描いた小説を読む必要があると感じ、この代表作を読んでみた。
 出だしは主人公の墓参りである。この部分は、とても情緒豊かに描かれており、このあとの悲劇の描写を際立たせる効果がある。
 しかし、原爆の被害の描写は、極めて客観的に淡々と描かれるために、阿鼻叫喚というような陰惨さを、激しくは感じさせないものと思った。被害の状況の悲惨な様が、その冷静な語りにより軽減している気がする。これは、著者が実際にその悲惨な状況を見て、眼を覆ってしまったのかもしれず、たとえばホラーや残虐犯罪を描いたときの、おどろおどろしい殺戮現場のような、グロテスクとも言える悲惨さがなく、脚色したり感情を込めたりできない、著者の死者への敬虔さが感じられるような、極めて物質的で冷淡さすら感じさせる文体になっている。
 実際、原爆が落ちても、多くの人が即死ではなかった。瓦礫の原の大火事に煽られて、渇きに苦しみ焼け爛れた姿のまま、しばらく生きていたのだ。それは、原爆による爆撃の生の描写であり、即死しない分、惨くないのだと一見思えないでもないが、小説に描かれているのは、瀕死の被害者が焼けただれて、火事の中に死にゆくまでの短い時間でしかない。それは、即死よりも苦しい死に様だろう。瓦礫の原の被災地は、本当に地獄が現成したかのような世界だったのだろう。
 しかし、この小説には、主人公の主観がまるでない。これだけのことをされて敵国を恨まないわけはなく、死んでいく親族に囲まれて悲しくないわけがないのに、それらの主観が根こそぎ描かれていない。ここに、著者の意匠性を見ることができる。確かに、どれだけ悲しみを書いたとしても多くの被害者にはそれは作り事のようなものだろうし、悲しみを描けば著者としての特異性が出て一般性を失う。この小説は、実は主人公というものは、個性的に存在しておらず、「私」は不特定多数の市民を表しているのだと、思えなくもない。あえて言うならば、主人公は原子力爆弾であり、その被害を受けた広島の街自体だったのだろう。
 最後に、「私」から離れて、一件りだけ「N」の話が入っているのは、「私」で語りえなかった被害者の男女の苦しみを描きたかったからではなかろうか。「私」の主人公の譚では、親しかった家族親族を失う悲しみ、「N」の主人公の譚では、愛したパートナーを失う悲しみ、それらが描かれているのではなかろうか。しかも、両者とも極めて非感情的に、どのような行動を取ったかだけが描かれている。この感情描写の欠如は、上述のように、犠牲者への敬虔さからだけではない気がする。きっと、被災者の著者事態、あまりにも惨い現実を与えられて、言葉がでないどころか、感情が干上がってしまったのではないだろうか。作中、「私」は、原爆の被害について書かねばならないと思うのだが、それも半ば無意識的な職業病のようなもので、ふつふつと憎しみが湧いてくるような、あるいは、とめどない悲しみが噴き出してくるような、そのような精神的健康が失われてしまっていたのではないだろうか。
 この感情の無描写は、不気味な沈黙のように却って真実味が感じられ、言下の絶望が小説の背景に屹立しているように、僕には思えるのだ。あるいは、上述のように、書くと嘘になってしまうからという理由もあるのかもしれない。しかし、PTSDの患者を思わせるような無感動は、却ってその深い絶望を描き出している気がする。ただ、それだけに、その絶望が多くの読者には、うまく伝わらないのではないかという気も、同時にした。

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