病人と障害者は純粋か

福祉の仕事で人のケアをしてきた立場から、急に病人になりケアされる立場になり違和感を感じることがある。

急に守られている、清らかな存在になっているあの感じ。
なんだか気持ちわるい。

友人にマギーズ東京という場所を勧められた。

マギーズ東京 | ようこそ、マギーズ東京へ (maggiestokyo.org)
興味はあれどまだ行ってない。

HPで見る限り、都心に立つ、木造の大きな一軒家と聖母マリアのようなカウンセラーがいるそよ風とやさしさしかないような空間。
営利な匂いは一切せずすべて無料。
出してくれるお茶もオーガニックとかなんだろう。

すばらしい空間であることは間違えない。

弱きものとして迎えられ誰も傷つけない。傷つかない。善意しかない。

浮世から離脱したユートピアとでもよぼうか。
通っていた中高はミッション系でおなじような雰囲気であったが
「高い学費」をちゃっかりとったうえでのサービスとしてのアレだったのでまだ分かる。そこには「格差」という人間くささがある。しかし、ここにはそれもない。

これまでは遊びに行くと言えば夜のまちで、若いころは男にだまされないぞ、とか今となってはあやしい自己啓発セミナーとか金融商品の勧誘とかだまされないぞとかそれなりに気をはって生きていた。
それも「善と悪」は個別に存在しているわけではなく、犯罪者でもないかぎり、人は「欲とやさしさ」のはざまで揺れ動いて生きていて、自分の対応しだいで「どちらの面を引き出すか」という面白さと言うか危うさというのもあった。

だけどマギーズ東京は全部きれいにろ過してしまって「善意のみ」「毒っけゼロ」
あたりまえだ。病人を欲で傷つけるわけにはいかない。
癒してあげなきゃいけない人たちだもの。
そんな風に思われていると思ってしまう。

健康だったら毒も解毒できたり時に中毒になる楽しさもあるのかもしれない。
そんな危うさの中でなんとかバランスをとって生きているのが健康なひとたち。

「解毒できない人たちは純水だけの世界へようこそ」と言われるとそれはそれで抵抗したくなる。

福祉の仕事をしていると「福祉をアートに!」とか「福祉をおしゃれに!」とかいうフレーズの事業所があって「福祉におしゃれもアートもいらんだろ」と思ったけど、今になって分かる。私のような違和感があるひとには刺さるのだろう。

「乙武くんが女で身を持ち崩した」というのは衝撃だったが、彼は「障害者だから純粋だと思われたくない」と以前から抵抗を示していた。遅すぎた反抗期とでもいおうか。
不倫は健常も障害もなくダメなものはダメなんだけど「清濁併せ持つおもしろさ」を経験したかったのかな。とちょっと分かる気もする。

傷つけられても立ち上がるし騙されても復帰するし。ずるい人をゆるす度量もあるし、いろんな藻や魚や時に有害物質もある海を泳いでいくよ!!

そんな気合を「純水世界へようこそ」はそぎとってしまい「あなたはパワーレスですよ」というメッセージを暗に送ってしまうのかもしれない。

いまギャンブルをやる高齢者施設が流行っているらしい。
それもその理論だろう。
いままで斬ったはったの世界でバリバリ仕事をしていた人に、急に欲のない善意しかない純水の世界はきついだろう。一人前でないと思われていると思わせてしまう。

赤ちゃんの時はお母さんのやさしさだけという純水の世界だった。
幼稚園にいけば意地悪な子がいる。学校に行けば競争がある。社会に行けばお金や格差があり、恋愛には欲がある。
そんな大変な世界を死なずになんとか生きてきた。
純水世界へのいざないへの抵抗はもしかしたらそんな自分の人生のささやかな誇りなのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?