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ある日私がビーガンに学んだ伝え方の大切さについて

伝え方によって捉え方が変わることがある。

例えばコンクールに参加した人に対して残念な結果になったことを伝える時。
「今回の〇〇コンクールで山田さまは時間内に終わらなかった為に残念な結果に終わりました」
と言われるか
「今回の〇〇コンクールで山田さまは大変素晴らしい演技をなさっておられましたが、時間が足りなかったこともあって残念な結果に終わりました」

どちらとも同じことを言ってるけれど、
前者は露骨に山田さんのせいにしているところ。
後者はオブラートに包み、時間のせいにしているところ。

若干の差でも捉え方も変わるし、
印象も変わる。
前者だとなんだかムッとしてしまわないでしょうか。


人間であることに嫌悪感を抱く時がある。
こんなこと言ったら変なやつと思われるかもしれない。
でも最近考えたことをまとめたい。
少し過激な表現もあるので嫌な方は読み進めないでもらいたい。

ビーガン。
最近よくこの言葉を耳にする。
主に動物性のものを食べない、動物実験に反対し、実験をしている化粧品なども使わないそんな感じの人たちのこと。

私のある友人がビーガンになった。
その時から彼女のインスタはビーガンに関しての情報を発信していった。

最初はイラストとかで、
「動物は食べ物じゃない」
「種差別はおかしい」
とかそんな感じのこと。

私はそうだなあ確かに考えなきゃって思ったりした。
ちょっと気になってビーガンレストランとかにいってみたり、置き換えられそうな食べ物を置き換えてみる実験をしてみたりした。
例えば牛乳を豆乳に変えるとか、そんな感じの小さなこと。

そうしているうちに段々と彼女のインスタは
実際の様子が映った写真だとか
動画を載せるようになってきて、
ショックを受けた。

目を背けてはいけない。
辛い映像。
羊が宙吊りになって殺されていたりとか
皮が剥ぎ取られたりとか。

ショックで見ていられなかった。
閲覧注意とかでもしてくれたらよかったのに
インスタを開いた瞬間に出てきて私は彼女に少し腹が立った。

過激だ、と思った。
伝えたいことはわかるし素晴らしい。
なのに伝え方がとても過激で傲慢だった。

見ろ!人間がやってることを!背けるな!
と言われたように感じた。

それは無責任だと思った。
キチンと伝えていない為に
ビーガンである人への誤解が生まれそうだと思った。

私は彼女のインスタをミュートした。
いつでも見れるが自分から見に行かないと見れない仕組み。私だけだったのかと思いきや友人の何人かに聞いたところ同じようなことを言われてやっぱりそうだよなあと思った。


動物に対して人間がやってきたことは見直すことが必要で、今その動きがあることは確かだ。
過激にならないと注目されてこなかったことで
今までの私たちが目を背けていたことで、
インスタの過激派ビーガンである友達のような人がいたからこそ世の中が徐々に変化していってるのかもしれない。

ペットショップとブリーダーのあり方や
食用とされる動物の扱い方
毛皮として生まれた動物への関心。

今までもずっとあったはずなのに
目を背けていた問題。
知れば知るほどやってきた人間に対しても、
やっている人間に対しても、
知らなかった自分に対しても嫌悪を抱く。

人間はなんて自分勝手なんだ。
なんで自分は人間に生まれたんだろうとすら考えてしまったり。

ビーガンの人たちの運動があってこそ
世界中が関心を抱き
世界が少しずつ変化しているのも事実だ。

ただ伝え方はとても大切だと今回の件で思った。
正しく伝えないと意味がない。
あまりにも露骨すぎる伝え方をすればするほど
人の関心が離れていく。
目を背けたくなってしまう。
私の過激派ビーガンの友人のように
誰もが簡単に見れてしまうSNSで
閲覧注意な動画や画像を流して誰の目にも簡単に触れるようにしてしまうのはとてももったいない。
せめて選択権は必要だし、
時間も必要だと思う。

時にはストレートに伝えることも大切かも知れない。
けれど相手の立場になって伝えることが
一番の「伝わる」近道なのではないのかなとふと思った。





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