山の登り方
小さい頃、両親に連れられてよく山登りに行った。
遠足レベルで登れる山であったが、小さい自分に山登りはつらかった。
登りの道は、永遠に続くのではないかと思うような苦痛に見舞われた。
そんなのお構いなしで、両親は上へと上へと進んでいく。
それに追いつこうと、必死になってくらいついて行った。
頂上へたどり着くと、風が気持ち良い。
見晴らしも最高であるが、やっぱり山へ登る辛さの方が大きい。
なんで、人は山へ登るのであろうか?
小学生の時に、山登りの最終目的である富士登山をした。
富士登山は、夏の夜中に見えない暗闇の中、前の人に続いて登山していくのである。
何も見えない暗闇の中登って行くのであるが、この時は辛さを感じなかった。辛さを感じる暇が無かったのである。周りは暗黒の闇。ただ、ただ、前の人の背を頼りに上って行く心細さの中、そんな気持ちの余裕が無かったからである。
富士山を登山したが、頂上を拝めなかった。
9.5合目の山小屋で、眠気に襲われ山小屋で両親が頂上を目指すお留守番となったからである。
富士山の登山では、下りが怖かった。
富士山は遠目から眺めると美しいが、実際は黒い岩がごつごつとした山肌である。足の裏に感じるごつごつとした小さい岩たちが疲れを倍増させた。
しかし、両親が与えてくれた山登りは、貴重な経験である。
困難に立ち向かった時に、苦しいけれど耐えきれるだけの忍耐力を得たような気がする。自分の場合は、それが度を越していたような気もするが。
戦時中に子供時代を送った両親は、学歴は無いが、山登りを通して財産を与えてくれたような気がする。
子供達には山登りなどとプライベートで経験させたことが無いが、小学校の遠足や中学校のスキー教室などで、学ばせてもらっているがわずかな経験である。
子供達が困難に遭遇した時に、親は簡単に答えを与えず、自力で解決できるような力をつけてあげなくてはいけない。
解決する気力が無い場合には、伴奏して、山の登り方を教えよう。
山登りの場合は、必ず頂上が存在するが、リアルな社会では辛いばかりで成功と言う頂上が見えない場合もある。
成功と言う頂上が無くても、それまでの過程は無駄な努力ではない事。
それも教えなければいけないのは事実であるけれども、出来るなら、小さい山の成功体験をいっぱい経験させてあげる必要があるであろう。
リアルな社会は厳しい。
結果が全てであるからだ。
無駄な努力は無いなどと綺麗ごとばかりも言っていられないが、その大切さに気付くのは、すべてを失った時。
すべてを失って、復活した人間が言うんだもの、間違いは無い。
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