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孤独だった父親の介護の結末

両親の介護は、孤独との戦いであった。

母親の時は、相談相手に父親がいたが、入院中の母親を見舞うには、父親を載せる介護タクシーが必要となる為、父親は、見舞いを控えた。

母親の末期、父親が同じ病院の通院時に、見舞ったのが両親の最後の時間であった。

母親が息を引き取った時に、流石に父親を迎えに行こうとしたのであるが、父親からは、断られた。

葬儀の打ち合わせには、父親はおらず、旦那と息子福山が同席してくれた。

家族葬にするからと、自宅で弔問客をおもてなしすると言った父親は、葬儀の2日後に倒れて、ベットの上でマグロ状態であった。

その時も一人であった。弔問客のおもてなしから、母親の手続き、父親のお見舞いと良くやったとその時の事を振り返る。

それも週3回のパートをしながらであった。

それから4年、父親と相談しながらの介護だった。

ケアマネージャーもいるけれど、介護スタッフはいるけれど、自宅には家族がいるけれど、どこか4年の間、孤独だった。

でも、実家で父親と会話を楽しんだものである。

旦那の事を恨んだ。

父親の介護へ向かう時は、文句も言わず送り出してくれたが、ただ、それだけ。

確かに、遠方の義理母の最後の方は、闘病中だった影響で、ノータッチだったから、その間の旦那の苦しみは知らない。

遠方で、すぐ上の兄からの連絡で、いつも不安に感じており、すぐにでも会いに行きたい思いに駆られていたと、

なんで、一人なんだ、

一人っ子だからなのか。

いつも介護の捌け口は、ネット上の日記である。

見えないネットの先の人に愚痴を吐き出すことによって、話を聞いてもらっていたのかもしれない。

そして、父親の急変の知らせ。

その時である。

「一緒に行こう。」の旦那の一声に救われたのである。

ああ、一人じゃなかったと。

葬儀が終わり、息子福山のワクチン接種のきっかけで、自宅に帰ってきてからの会話。

家族四人でリビングにいた時に、旦那が、父親が電話をかけてきそうだと、良く父親の電話をとり、会話をしていた事に気がつく。

父親は、ショートステイから1週間と2日で、急変した。

ショートステイの初日に、実家に帰ったというのに、自宅に電話をし、電話をとった娘が連絡をくれた時、帰ってきてから話を聞いたところ、父親と娘は、かなり長電話をしたようである。最後に話せて良かったと言っていた。

息子福山は、父親が転院した際に移動を手伝ってくれて、父親と会い、お小遣いをもらっている。

うちの家族と父親は、べったりした関係ではなく、疎遠気味で悲しい思いを抱いていたが、家族の中での父親の記憶は鮮明であった。

4年も経つのに、母親は、またどこか近所をぶらついて、帰ってこないだけで、亡くなった感覚がない。全て立ち会ったというのに。

父親の事もまだ実感がない。

先日の地震。

父親がまだ死ぬつもりはなかったのにと、暴れているような気がした。

何か嫌なことをされても、相手にバチが当たるという、神がかり的な父親だった。

晴れ男の父親。

自分の中での両親は、まだ生きている。


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