利き手と米の重さと世紀末の息子
米を息子福山に買ってきてもらおうと部屋に立ち入り声がけをしたら、「買ってきて」と無下な返答をいただいた。
ちぇっ。
役に立たない長男。
さっき、シャワーを浴びたばかりなのに、外出かよ。ととぼとぼ近所のスーパーへ出向く。
夕方だからか、割と人がいた。
自宅のある駅は、都会の田舎の街である。
国道沿いにスーパーはあるのであるが、いつもは、人通りはまばら。
こんなに家がいっぱい立ち並ぶのに、人が見当たらないのが常。
だから、人を見かけると結構嬉しくなる。
さてさて、米を買い自宅に向かったのであるが、なぜか利き手ではない左の方が、米の重さに耐えるらしい。
長年タイピングをしているので、両手を器用に使っているが、利き手ではない左手では、文字は書けないし、通常は使い物にならない。
だからなのか、左手は、ここぞと頑張る。
細かい事は出来ないけれど、重いものは持てるぜ。と意気揚々である。
しかしながら米は重い。
こんな時は、やっぱり人に頼りたくなるものである。
スーパーでモンブランを買ったので、早速、いただいていたら、2階から息子福山がリビングに降りてきて、「米炊いた?」と問うので、「今帰ってきたところだよ。」と述べると、腹が減っているのか、息子福山は、自分で米を炊いていた。
米を炊く必要がなくなったので、こうやってnoteを書いている。
話は変わるが、息子福山は、世紀末生まれなのである。
ノストラダムスの大予言の1999年7月が出産予定日だったのである。
だから、お腹の中の息子福山をアルマゲドンのアル君と呼んでいたぐらいである。
しかしながら、出産予定日前に生まれたので、すっかりノストラダムスの事を忘れて、子育ての忙しさにまみれていた。
もう今年は、2021年。
あのノストラダムスの大予言は何だったのであろうか?
息子福山は、本当のアルマゲドンだったのかもしれない。
息子福山は、地球を救った英雄かもしれない。
丙午に生まれより、貴重価値があるのかもしれない、なんてね。
お誕生日の当日は、ファミリーレストランでランチを取った。
夜は夜で、家族4人で宴である。
旦那が、息子福山の好物を色々買い込んでの宴であった。
息子福山は、自然の成り行きであれば生まれてこれなかった。
妊娠5ヶ月目に、陣痛が来たからである。
そんな怖い話は、息子福山には言ってはいない。
なんか、その話をしてしまうと、息子福山が聞いたら、全否定をされている気分になるのではないかと、危惧するからである。
そんな息子福山も大きくなったものである。
しかしながら我が家の勇者は、役立たずである。
重い米を持った左手がまだプルプルと揺れている。
母を助ける勇者になってもらいたいものだ。
いただいたサポートで美味しいものを食べて、次のnoteに活かします。