見出し画像

No.956 ゲシュタルト療法に影響している哲学について考えてみる、、

2023年も3日目となりました。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

私の個人的ブログも半年近く無視していました。

2022年夏頃から哲学について考えています。

それは、私の学び実践しているゲシュタルト療法へと影響を与えたとされる現象学と実存主義を深めたいがためです。

私が1960年代にゲシュタルト療法に出会っていたなら、創始者のフリッツ.F.パールズに直接聞けたのでしょう。
しかし、残念ながらわたしが生まれたのは1963年であり、学び始めたのは2003年でしたから、40年遅かったようです。

なので、私自身が哲学書を読み、私の理解しているゲシュタルト療法と突き合わせながら、理解する必要に迫られています。

まず哲学について、、
真理を追求する学問である。

その起源は、ギリシャの小さな港町 ミレトスで生まれたとされている。BC7世紀から6世紀頃である。

そこには地中海じゅうの民族が集まって交易をしていたことから、他民族との様々な交流が生まれ、その中から哲学は生まれた。

それぞれの民族にはそれぞれの文化を持ち、遺伝子としてそれが根づいている。

それぞれの異なる文化を持つ民族が集まり、自らの文化(価値観)を持ちながら交流すれば自ずと議論となる。

例えば、俺のところは太陽神が唯一の神であると言う。
ある男は、俺のところは神は森に宿っているんだと言う。また、ある男は、海神が俺たちを守ってくれるのだと言う。

そんな様々な議論から神とは何か、世界とは何かと言う真理を追求する問答に発展していく。

哲学の祖は 一説によれば、古代ギリシャのソフィストであったタレスと言われている。その頃の哲学は世界の根源とは何かと問うていた。

タレスは、世界の根源は水であると定義する。
様々な古代ギリシャのソフィストたちが、世界の根源について問答する。

このような、世界の根源についての問答が始まりである。

その後、BC5世紀から4世紀にかけ、古代ギリシャ哲学者ソクラテスが現れる。

哲学の語源は、ギリシア語 φιλοσοφια(philosophia; philo-=愛する、sophia=知)に由来する。

すなわち、知を愛する学問であり、人間、世界、事物の本質を理性によって求めようとする学問である。

ソクラテス以降の哲学は、人間の本質を求めるようになる。その後、弟子であったプラトン、その弟子であったアリストテレスらが古代ギリシャ哲学を発展させる。

しかし、BC四世紀に古代ギリシアのポリスはマケドニアに制覇され、次にローマ帝国の支配に置かれると、ギリシア哲学も衰退の兆しを見せ始める。

そして、その後、中世ヨーロッパはキリスト教の支配する時代に突入し、神学の強い影響下に置かれることになる。

14世紀に入り十字軍の遠征による商業都市の発展、それに伴うイスラム教の世界観の流入など、キリスト教の権威に翳りが出始めると共に、「人知を超えた存在としての神を前提に理論を構築してはならない」という古代ギリシアのアリストテレスの哲学が流行する。

その後、15世紀以降、ローマ帝国の滅亡に伴うルネサンス時代の到来、コペルニクスの地動説やニュートンの万有引力の法則など自然科学が発展、また、マルチン•ルターによる宗教革命と宗教戦争による教会の権威失墜など、神ではなく、人間への関心が再び高まっていく。

これが近代哲学の始まりであり、おおよそ16世紀から20世紀までの哲学を言う。

近代哲学の祖は、ルネ•デカルト(1596-1650)と言われる。彼は、我思う(cogito)、故に(ergo)、我あり(sum)「コギト・エルゴ・スム(Cogito ergo sum)」で有名である。
これは、「世の中のすべてのものの存在を疑ったとしても、それを疑っている自分自身の存在だけは疑うことができない」ということである。

このデカルトから「主観と客観」、「認識と対象」の二元論が近代哲学の根源問題とされ、様々な哲学者がこの問題を解き明かそうとした。

近代哲学の「根源問題」とは、この石ころと私の見ている石ころは同じものか。「主観と客観」、「認識と対象」は一致するのかと言う問題である。

この主観/客観問題は、イマヌエル•カント(1724-1804)、ヴィルヘルム•フリードリヒ•ヘーゲル(1770-1831)、フリードリヒ•ニーチェ(1844-1900)らがそれぞれの理論を構築しながら、解き明かしていくのだが、最終的にはエトムント•フッサール(1859-1939)が全容を解き明かすこととなる。

哲学者 竹田青嗣氏の著書「現象学入門」(NHK出版)を参考にしながら、フッサール現象学のゲシュタルト療法への影響について見てみたい。

フッサールは「現象学の理念」の中で、次のように書いている。

「認識は、それがどのように形成されていようと、一個の心的体験であり、従って認識する主観の認識である。
しかも認識には認識される客観が対立しているのである。ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのであろうか。
認識はどのようにして自己を超えて、その客観に確実に的中しうるのであろうか」と。

主観/客観の難問に対してほぼ完全な形で回答を与えたのはフッサールの現象学だけである。

フッサールはこれまでの主観/客観図式から考えるのではなく、私たちは主観の中に閉じ込められているにも関わらず、世界の存在や自然の事物の実在、他者の存在といった客観的事象を疑がわず、確信できるのかと言う考え方から出発した。

フッサールはこう考える。
世界には様々な認識があり、そこに様々な判断があり、その判断を正しいとする様々な確信が生まれる。しかし、私たちはその判断をどうして疑いようのないものとして確信するのか。

判断には2通りが存在する。直接判断と間接判断である。
間接判断とは、私たちの直接経験からではなく、直接経験から類推や推論した判断であり、多くの憶測(ドクサ)を含んでいる。これは可疑的であり、直接判断とは、不可疑的である。

このように憶測を含むものから、すべての憶測を排除することで、不可疑的確信が生まれるのだが、この疑うことが無意味な確信の根底にあるものをフッサールは原的な直観と呼んだ。

この原的直観は2つあり、知覚直観と本質直観と呼ぶ。

では、この知覚直観と本質直観が原的な不可疑的な直観なのだろうか。

私たちは、まず知覚し、そこから、想起、記憶、想像などを行う。
例えば、目の前にコップがある時、私たちはそのコップを眼で知覚する。その後、そのコップからある事を思い出したり、記憶したり、想像したりする。

この時、想起、記憶、想像などは私たちの意識の志向力によって様々なことを作り出すことができる。

しかし、知覚だけは意識の志向力の自由にはならないのだ。目の前に現れているコップを存在しないものとして認識することは不可能である。

故に、この知覚直観だけが不可疑的なものであり、不可疑的確信を持つ確信の根底としての意識である。

また、本質直観において、フッサールは事実と本質を次のように区分した。
「事実とは、それぞれの個的存在に関わり、「偶然的」なものであるが、本質とは、その個的存在の「偶然性」に含まれている本質「必然性」の側面である。だから、どんな事実も必ずそこに本質を含み、従ってある本質として観取され、記述される」と。

例えば、私たちが目の前のコップを知覚する時、これがコップであると言うことを既に経験している必要がある。それはコップの概念を知っていると言うことであり、コップがどのようなものであるかという本質を既に理解しているのだ。

私たちは事象を知覚を通して不可疑的なものとして認識する。しかし、この知覚認識には必ず何らかの経験が必要となる。これが本質直観である。

現象学の話が長くなってしまったが、私たちはこの現象学の原理をどのようにゲシュタルト療法へと取り入れているのだろうか。

上記のように、私たちは現象のすべてを知覚や本質と言ったものから認識する必要がある。何故なら、それこそが不可疑的な認識であるからだ。

簡単に言えば、目の前の現象を現象のあるがままに自分の内側から認識するということである。

それは、現象に対し、あらゆる先入観(想起、記憶、想像)などの憶測を排除し、意識された現象を絶対的な内側の感覚を通してのみ直接認識することである。

例えば私の目の前にクライエントがいるとする。
まず私は、クライエント自体が私の目の前に実存していることを絶対に確かなこととして認識する必要がある。
そして、私は、そのクライエントに現れている現象(表情や仕草、気持ちや身体感覚など)を私の先入観や憶測(客観)を持たずに、絶対的な私の感覚を通して、私の内側からその実存を認識する必要がある。

それによって、私の憶測を持たずに、今ここに存在するクライエントへと向き合うことが可能となるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?