伝説のレーシングドライバー・浮谷東次郎の生涯

はじめに

 1960年代、黎明期のモータースポーツ界に彗星のごとく現れた一人のレーサーがいました。
 そのレーサーの名は浮谷東次郎。わずか2年弱の活動期間において数々のレースで優勝を果たし、その驚異的な走りっぷりで人々を魅了しました。日本人で最初のF1ドライバーとなっていたかもしれない――そう評されることもある人物です。その著書、『がむしゃら1500キロ』『俺様の宝石さ』は、のちに多くの若者に愛読されました。その鮮烈な生涯は、今なお伝説として語り継がれています。
 今回は、そんな伝説のレーシングドライバー・浮谷東次郎の生涯をご紹介しようと思います。

1. 東海道1500キロの旅

 1942年、浮谷東次郎は千葉県市川市に生まれました。
 浮谷家は、地元ではよく知られた旧家でした。東次郎の父は大のクルマ好きで、会社を経営するかたわら、自宅の庭に自動車教習所を開設。この当時、自動車は多くの庶民にとって簡単に手が届かないほど高価なものでした。幸運にも東次郎は、父の影響で少年時代よりバイクや自動車に親しむようになります。

 1957年夏。中学3年生の東次郎は、ある決断をします。それは、市川―大阪間を50ccのクライドラーで走破する、というものでした(当時は14歳でバイクの免許を取ることが可能でした)。大阪に滞在していた祖父を訪ねるのがこの旅の目的でした。当時の日本はまだまだ未舗装の道も多く、まして15歳の少年が単身オートバイに乗り、東海道を走破するというのは大変な困難が予想されました。ですが東次郎は、見事にそれをやり遂げてみせたのです。

 翌年、この時の体験をもとに『がむしゃら1500キロ』を執筆し、私家版として刊行します。この旅行記を紐解いてみると、高校生が書いたとは思えないみずみずしい文章や、清冽な感受性に驚かされます。この手記が読み手の心を打つのは、全編がそのような感受性に満ち満ちているからに他なりません。

 東次郎がこの旅で決意したものとは、自らの手で「生産」するということでした。その「生産」の成果の一つに、この旅行記の執筆がありました。同書の「あとがき」に、次のような文章があります。

僕はこの旅行記を書く事を真夏の大阪で決心した。その時の目的は〝自分の力で何かを作る〟にあった。ちいさな女の子が、じっとすわって西瓜を売っている。老いてしまった人夫さんが今日も道路工事に働いている。それなのに、僕は親の金で親の車で、ただ走るという目的だけで旅行している。僕は自分が情無かった。だから、自分で何かを作ろう、生産しようとしたのである。

(『がむしゃら1500キロ』)

 旅の序盤では、その恵まれた環境を鼻にかけるようなところがあった東次郎も、終盤に至る頃には、自立への過程を自覚することになります。だから、本書を「金持ちのボンボンがバイクを乗り回しただけの手記」と思って読もうとすると、とんだ読み違いをすることになります。東次郎はやがて、自分一人の力で生きていくという目標のために、アメリカ留学を志すようになるのです。

2. 高校中退、そしてアメリカへ

 1958年、東次郎は東京都立両国高校に進学します。
 両国高校といえば、言わずと知れた名門校。東大合格者を何人も輩出し、東大を目指すことが当たり前のような環境でした。東次郎もまた、当初は東大への進学を志望していたのです。
 けれども、東次郎はやがてある疑問を持つようになります。

受験勉強なんてくだらない、自主性もくそもあるものか。食いたくないメシを、歯の間に鉄の棒をつっ込んでこじあけた口へ、詰め込んでいるようなものじゃないか。役に立たないような古い英文法や、読んだこともない作品の文学史における意義とかを、うのみにして覚えて、一体、何になるというのだ。それよりも、自分の意見をレポートとしてまとめたりする力を養う方が、何倍も大切じゃないか!

(『オートバイと初恋と わが青春の遺産』)

 東次郎が考えていたのは、勉強からの逃避ではありませんでした。むしろ、学問への情熱は人一倍持っていたと思います。東次郎が望んでいたのは、型通りの学問ではなく、「生きた学問」を学びたい、ということでした。

 この頃から東次郎は、アメリカへの留学を考えるようになります。それは、『がむしゃら1500キロ』の旅で自覚した、自立への過程に必要なことでした。この当時、まだ海外旅行は自由化されておらず、ましてや高校を中退してまで渡米することは、かなりの困難が予想されました。そんな中、東次郎は自らアメリカ大使館まで交渉に出向き、渡米の許可を得ることに成功します。
 1960年秋、東次郎はひとりアメリカへと旅立ちました。


 アメリカに着いた東次郎は、ニューヨーク在住の知り合いのアメリカ人家族のもとに身を寄せます。しかし、やがて居候の身分にいたたまれなくなり、独立することを決意。タイム&ライフ社でメールボーイの職を得て、昼間は働き、夜は夜間高校に通いながら、念願の一人暮らしを始めることになります。

 半年ほどでニューヨークを去り、カリフォルニアへ。マウント・サンアントニオ・カレッジに入学し、心理学を学びながら、クラブ活動やアルバイトに明け暮れます。のちにカレッジをドロップアウトすると、自ら購入したオートバイに乗って北米大陸を放浪。ときに現地の草レースに参戦し、そのあまりの速さから、「カミカゼ・ボーイ」というあだ名を付けられるほどでした。

 東次郎には、ひとつの夢がありました。それは、大学をつくること――無試験・無月謝・無通信簿で、学びたい者ならだれでも学べる大学を設立することでした。この放浪の旅は、その目標の参考になる大学を探す目的もあったようです。のちにレーサーになったのも、大学創設のための資金を稼ぐという目的があったのかもしれません。

 アメリカ時代の日記や手紙は、のちに『俺様の宝石さ』という本にまとめられることになります。

3. レーサーとしてデビューする

 1963年6月に帰国した東次郎。その前後より、同世代の若者たちがレーサーとして活躍している噂を耳にします。その中には、精神科医・式場隆三郎の甥で、同郷の友人であった式場壮吉や、東次郎の友人かつ最大のライバルで、のちに日本人ドライバーの海外挑戦の先駆けとなった生沢徹がいました。彼らに触発されるように、東次郎もまたレーサーになることを決意します。

 東次郎は自らを売り込むために、トヨタ自動車に直筆の手紙と『がむしゃら1500キロ』を送ります。そのかいあって、トヨタの専属ドライバーとしての契約を勝ち取ることに成功します。

 当時の日本は、高度経済成長期の真っただ中。一般家庭に自家用車が普及し始めた時期にあたります。数多くのメーカーが自社の宣伝のために自動車レースに参戦。日本におけるモータースポーツが盛り上がりを見せていた時代でした。その風潮の中で、トヨタは将来有望な東次郎に白羽の矢を立てたのでした。

 1964年5月、東次郎は第2回日本グランプリでデビュー。同年11月、他のレース仲間とともにイギリスのレーシングスクールに派遣されます。その最終日、優勝者にF3への参加資格が与えられるタイムトライアルにおいて、東次郎はトップタイムを叩き出します。のちに海外進出を果たすことになる生沢徹らを抑えての優勝でした。このことからも、いかに東次郎の技術がずば抜けていたのかが分かります。生沢とともに海外挑戦の先駆者となる――そんな未来もあったかもしれません。

 翌1965年の第2回クラブマンレース鈴鹿大会において、東次郎はGT-1とGT-2の2種目優勝を果たします。そして、東次郎の名を世間にとどろかせるきっかけとなったのが、同年7月、船橋サーキットで開催された第1回全日本自動車クラブ選手権レース大会――通称CCCレースです。このレースで、東次郎は終生のライバル・生沢徹との直接対決に挑むことになります。

 レース序盤から激しいデッドヒートを繰り広げた2人。お互いのクルマが接触し、その影響で東次郎のクルマはピットインを余儀なくされます。応急処置を経てレースに復帰したとき、東次郎の順位は17位。優勝は絶望的かと思われました。

 けれども、東次郎はそこから驚異的な追い上げを見せます。前を走るクルマを次々と抜き去り、トップを走る生沢をとらえます。ついに東次郎は生沢を抜き去り、そのまま優勝を果たしました。
 この大逆転劇は、いまだに伝説として語り継がれています。

4. 1965年8月21日

 CCCレースから約1ヶ月後、東次郎の姿は鈴鹿サーキットにありました。きたるべきレースのために練習に訪れていたのでした。

 到着したばかりのホンダS600に乗り、スピードを上げて走行していた東次郎でしたが、そこに予期せぬ出来事が起こります。

 急カーブを曲がったその先に、突然2人の人影が現れたのです。1人のドライバーがコース上にホイールを飛ばしてしまい、そのホイールを探すためにコースのふちを歩いていました。そこに東次郎のクルマが猛スピードで進入してきたのです。

 東次郎は慌ててハンドルを切りました。ところが、反対側にもホイールを探している別のドライバーがいたのです。東次郎は必死にハンドルを操り、なんとか2人への衝突を回避します。しかし、その反動でクルマは制御不能に陥り、コース外へと直進。その先には、コース沿いに立つ4本の水銀灯がありました。

 手前の3本までは、かろうじて避けることができました。しかし、さすがの東次郎でも、4本目までは避けることができませんでした。クルマは鉄柱に激突。東次郎はコース上に投げ出され、瀕死の重傷を負います。

 翌日、東次郎は23歳の若さでこの世を去りました。1965年8月21日のことでした。


 この事故について、Wikipediaにある浮谷東次郎の記事を見てみると、まるでシートベルトをしていなかった東次郎に過失があるかのように読めてしまいます。実際、この記述をそのまま鵜呑みにしている方もいらっしゃるようです。しかし、事実はそう単純ではないのです。

 そもそも、東次郎が乗っていたクルマには、シートベルトが取り付けられていませんでした。当日ギリギリまで整備していたので、シートベルトの装着が間に合っていなかったのです。さらには、整備の影響でクルマの届くのが大幅に遅れたことも、事故の遠因となりました。ようやく届けられた頃には、テスト走行の終了時刻が迫ってきており、レース前にできるだけ走り込みたかった東次郎は、急いでクルマを走らせなくてはなりませんでした。本来いるはずのないコース上に人がいたこと、その先に鉄柱が立ち並んでいたことなど、さまざまな不幸が重なった結果の事故でした。

 それよりも、Wikipediaには肝心なことが書かれていません。それは、東次郎がコース上にいた2人の命を救ったということです。

 もしクルマがそのまま直進していたら、東次郎自身は助かったかもしれませんが、2人の尊い命は奪われていたことでしょう。猛スピードのクルマをとっさの判断で操り、2人への衝突を回避するという「奇跡」を起こすことができたのは、東次郎の並外れた技術と経験があったからこそでした。運転していたのが別のドライバーであったなら、2人への衝突を避けることはできなかったかもしれません。
 東次郎は、自らの命を犠牲にして、2人の命を救ったのです。
 没後の1985年、東次郎は、2人の命を救ったとして、ヨーロッパ交通遭難救助者顕彰会から「サマリターノ賞」を授与されました。


 最後に、ひとつのエピソードをご紹介したいと思います。
 東次郎が有名になった頃、ドライバーになりたいがどうすればいいか、という手紙が届くようになります。しかし、東次郎は一切返事を書きませんでした。いわく、返事を待っているような態度ではダメなんで、どんどん自分できりひらいていく行動力がなくては何もできない――と友人に語っていたと言います(桂木洋二『明日への全力疾走』より)。

 誰よりもがむしゃらに、誰よりもひたむきに、23年間の生涯を駆け抜けていった浮谷東次郎――本記事によって、その人物像の一端でも感じていただけたら幸いです。

読書案内

 浮谷東次郎について、さらに知りたくなったという方には、まず、漫画『栄光なき天才たち』(森田信吾作)をおすすめします。同シリーズのうち、浮谷東次郎の回は全4冊にわたっています。この4冊を一つに再編集した『浮谷東次郎物語』もあります。東次郎を知るための取っ掛かりとして最適でしょう。いずれも電子書籍で読むことが可能です。

 浮谷東次郎の評伝は、以下の2冊が刊行されています。
『浮谷東次郎 速すぎた男のドキュメント』(岩崎呉夫著、三樹書房。旧題:『燃えて走れ』)
『明日への全力疾走(フルスロットル) レーシングドライバー浮谷東次郎物語』(桂木洋二著、グランプリ出版)
 また、『東次郎へ』(浮谷和栄編、三樹書房)は知人・友人らによる追悼文集で、生前の東次郎の人となりを知ることができます。
 上記3冊はいずれも絶版となっているため、古書店か図書館で探して読むと良いでしょう。

 浮谷東次郎の著書としては、以下の3つが刊行されています。
『がむしゃら1500キロ』
『俺様の宝石さ』
『オートバイと初恋と』(旧題:『わが青春の遺産』)
の3つです(いずれもちくま文庫)。

 このうち『がむしゃら1500キロ』には、旅行記『がむしゃら1500キロ』全編、および同時期に書かれた日記等の文章を収めています。ちなみに同名の新潮文庫版もありますが、上記の旅行記のみを文庫化したものとなります。
『俺様の宝石さ』は、アメリカ留学時代の記録。『オートバイと初恋と』は、上記2つの中間の時期にあたる、高校時代の日記や手紙をまとめたものとなります。3冊とも品切れとなっているため、やはり古書店か図書館で探して読むのが良いでしょう。
 なお、私家版『がむしゃら1500キロ』については、Kindle版で読むことも可能です。

※浮谷東次郎の著作については、以下の記事も併せてご覧ください。


【参考文献】
岩崎呉夫「浮谷東次郎の二十三年間」、『がむしゃら1500キロ』所収、新潮社、1981年。
岩崎呉夫『浮谷東次郎 速すぎた男のドキュメント』、三樹書房、1992年。
桂木洋二『明日への全力疾走 レーシングドライバー浮谷東次郎物語』、グランプリ出版、1988年。

※引用は、『がむしゃら1500キロ』(Kindle版、2022年)、『オートバイと初恋と わが青春の遺産』(ちくま文庫、1986年)に拠りました。

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