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小山田圭吾氏の問題を受けて 「精神障害・発達障害」という立場の1人から発信する

障害者いじめと報じていたけれど…

 私は、この「いじめ」を武勇伝のようにして語っていたサブカル雑誌をたまたま読んでいたのだが、もはや「いじめ」じゃなく性非行自慢のごとし内容だった。その雑誌の出版社も謝罪表明をしている。
 そんなことを考えれば、もともと私はオリパラの理念に相応しくないと思っていた。最近の報道を「いじめ」として報道したため曖昧な議論なまま情報が流れてしまったことにもモヤモヤ感が残る。私は、そのサブカル雑誌の内容から鑑みて「いじめ」と報じずに直接「虐待」と伝えていた。身体的虐待でも精神的虐待でもあった。
 被害を被った障害の形態が精神・知的障害の部類にあたるため、当事者でつくる団体もそれに対して早く声明を出していたが、それは当然の流れだろうという意見も協調している。

(リンク)私の「発達障害」に関してのNote


いじめや虐待を受けた後のトラウマ病(PTSD)という経験

 私は、「重度の高機能広汎性発達障害」というものを診断されており、障害者手帳は2級である。この発達の人はいわゆる「変わり者」のようなアイデンティティを持つ人がほとんどなので、それを揶揄されたり性格や固有の趣味などをいじられたりすることもある。そして、過敏と鈍感の両極端さを持っている人も多い。私こそ、そのステレオタイプな特徴があるのだが、それによる精神的虐待は高校時代がピークだった。
 例えば、授業中に私語をされてしまうと教師の話をうまく聞き取ることができなくなったり、聴覚情報処理の障害も起こったりする。そうでなくても、授業中の私語は授業を受ける権利を侵害するという理念があったため絶対に許されなかったし、恩師も許していなかった。これを恩師から伝えてもらうと、わざと私語をしてみたり意図的に近くで陰口を言ってみたりなどの屈辱的な経験をした。さらに忌々しいという気持ちになったのは、当のいじめ本人の反省の色が見られなかったということ。

ある通院時、複雑性PTSD(DESNOS)と診断された。この時の症状は、いじめなどのトラウマに付随するようにフラッシュバックが起こったり、周りが全部敵に見えるといった錯覚や妄想へと陥るといった不安の症状、小説や漫画なのに特定の表現に対する嫌悪感がある、パニック症が頻発して、人やものにやつ当たりする、いじめにいじめで返してしまうなどの加害症状もあることも通院時に話してきた。
 鎮静剤も出されて、一時期は意識障害やせん妄という副作用を経験しながら緩和ケアを受け続けていった。
 高校卒業前に一度重症化し、半ば不登校状態にさせられ、高校卒業から大学入試までの2年間は自宅療養期間として2年間の受験勉強と並行して長期間のケアを受けた。

 私は、よく音楽を聴いたり絵を見たりアニメ・漫画を読んだりすることは趣味であるので「特定の表現に嫌悪」という症状があることは、「表現規制強要」という行為の罪深さもあり自分でも非常に厄介な症状だと感じて自己嫌悪するという負のスパイラルに陥ったこともあった。

 いじめの痛みは一生残るという当事者も多くいるが、その痛みの緩和ケアを厚生補助で受けられているという当事者もいる。
 こういういじめのトラウマに対しては、トラウマによる症状により加害者化しないように治療を推し進めていくことが理想だと思っていて、もし加害者が法的処分を受けたときは、賠償金などをそれに利用する制度があってもいいと思う。

私が受けた緩和ケアは、今でも「不安神経症」「恐怖症性不安障害」と診断されているものの、高校生時代の重症化した状態より十分に楽になるところまできた。トラウマを緩和できたと思うまでの期間は、およそ7年間。しかし、子どもが受けるいじめに対する薬物療法に関しては子どもが飲めない鎮静剤(SSRI、SNRIなど)がある、薬物療法で脳の成長へのダメージリスクが知られているなどで子どものいじめの緩和ケアに選択肢が狭いといったもともとある障害があるため、やはり特に子どもに対するいじめは心の治療方法が大人に比べて選択肢が狭いなど相当な危険を伴っているということだ。

障害者同士の障害者いじめという後悔と懺悔

 精神障害は、被害者になるリスクだけでなく加害者になるリスクも多く孕んでいる。先程自分で述べたようにPTSDで「いじめに対していじめで返してしまう」こともまさにこれである。私の場合は、いじめと感じるものが他の人とは異なっていたり、自分が喜ぶことが他人にとってはいじめになってしまうという事により周りが真っ暗になってしまって、自分のことで精一杯になってしまってそれで失敗することがある。
 私は口を挟まれることに非常にストレスを感じてしまうのだが、「よく口を挟んでくる」という特徴があったADHDの当事者に対して叱りのつもりが貶しに聞こえてしまって、これを謝らなければならないということがあった。
 このように、心の問題となるとそれ同士の争いやゴタゴタはよく遭遇するし第三者でもよく見かけるような気がする。特に「病識ない」という場合のリスクは非常に大きいと思う。
 そして、NHKのバリバラがたまに障害者同士の障害者いじめという話題に切り込んでいるのに「障害者同士の別の障害いじめ」がパロディであった件に対して自戒と非難との両方の念が生ずる。
 そんなことを考えると、小山田圭吾氏の問題に関しては、正直複雑な思いを抱えている。障害者というものがいつしか隠れ蓑になりかけているという懺悔すら感じてしまう。そんな思いを抱えているから、メディアが作っているような「障害者の聖人君子論」なんて、幻想だと思っている。ホーキング青山さんもそんな事を著書に著していたなぁ。

いじめ・虐待よりたちが悪いと思った事情〜今の24時間テレビこそ同じ問題だ

 いじめに関する問題だが、私はそれよりたちが悪いと思うものがある。それは「無関心」だ。無関心は私にとっていじめより酷い扱いにも見えたりする。
 以前、「感動ポルノ」という議論が2012年はオーストラリアのいまは亡きステラ・ヤングさんによって提起された。この趣旨は「ポルノ」は、ここだと扇情的なものという意味でポルノにたとえたものであって障害当事者を不本意に美化し、哀れなモノのように扱って一生懸命に何かを達成「させようとする」ものを集めてメディアが取り上げてくるということが問題であるというもの。
 私はあくまで、「不本意に」が問題であるから障害当事者の「本意」で感動を売りにしたいという場合は問題ないし、ありのままの自分を出している障害当事者はもはや自己肯定感を高める教材になるので本当に歓迎したいという意見だし、NHKバリバラやAbemaTVのその方針を評価している。問題なのは、ノンフィクションに対する不本意な障害者の描き方は対象を余計に下に見てしまう(モノのような扱い)ことである。
 この意見であるから、障害に対して「無関心」という態度は本当にいじめよりも許せないたちが悪いことだと感じたりする。ものすごく毒々しい表現だが、ステラ・ヤングさんの表現に則ると、感動ポルノなら発達障害・精神障害・性に関わる障害の当事者たちが「堕胎された嬰児」のようなポジションにいるというような感覚なのだ。障害当事者は自分から啓発していく意図がある人たちも結構いるのに、無関心で見て見ぬ振りをされていく障害の形態が一定数いて、自分が今それに直面しているような気がしてならず、感動ポルノが「モノ化」なら「モノですらない」と見られてしまう。感動ポルノが原因で、このような「感動インセル(※)」のような状態を抱えさせられてしまうことが本当に屈辱的なものだ。

(※)インセル…Incel/Involuntary celibate. 不本意な禁欲と童貞;性的同意があるか望んでいるのに自分以外の人が自身の性的経験を侵しているという思想が主に挙げられる。ただしそれにより性蔑視主義者(女性蔑視/男性蔑視)のニュアンスも含まれる場合がある。
インセルはワインスタイン効果で明るみになった「MeToo」問題と正反対の理由での一種の性的いじめの被害者の形態ともいえるが、被害者から加害者に転じたケースもみられて、テロ事件に発展したものもある。

 もし小山田圭吾氏の問題で「障害者いじめ」を問題にするなら、いま「感動ポルノ」という障害者をモノ扱いする節のある24時間テレビ自体もいつからかこの「障害者いじめ」の番組に変貌して鬼畜の所業をする番組になっているということである。
 そして一部の障害形態の当事者に対する無関心、「モノですらないような扱い」をする事こそさらに二重の問題である。
 その理由で、24時間テレビは同じ罪を背負っていると感じる。

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